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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<死と等価交換2

食物や衣服や採暖や住居などのような自然な欲望そのものは、一国の気象その他の自然的な特色によって違っている。他方、いわゆる必要欲望の範囲もその充足の仕方もそれ自身一つの歴史的な産物であり、したがって、だいたいにおいて一国の文化段階によって定まるものであり、ことにまた、主として、自由な労働者の階級がどのような条件のもとで、したがってどのような習慣や生活欲求をもって形成されたか、によって定まるものである。だから、労働力の価値規定は、他の諸商品の場合とは違って、ある歴史的な精神的な要素を含んでいる。とはいえ、一定の国については、また一定の時代には、必要生活手段の平均的範囲は与えられているのである。(『資本論』)
 端的に言えば、労働力商品の価値は、それが存在する共同体のなかで、共同主観的に決定されているということになろうか。マルクスによれば、そのことが「他の諸商品の場合とは違って」いるところだと言うのである。しかし、それはどういうことか。
 商人資本による商品交換を可能にするのは、本質的には、交換に携わる者たち相互の共同主観的なコードではなかった。それらは、むしろ、二つの共同体におけるそれぞれの共同主観性の間の差異なのである。ところが、労働力商品のみは、共同主観性に基礎を置いていると、マルクスは言うのだ。もちろん、労働力商品を売ろうとするその所有者(労働者)と、それを買おうとする資本家との関係は、やはり価値形態論に沿った動きをするには違いない。労働力の市場は単一・均質ではなく、さまざまに分断されているから、それぞれの市場の共同主観性の間には、当然にも差異が存在しているからである。同じことが、資本についても言える。労働力を「買う立場」にある資本が置かれている場所も、決して単一ではない。簡単な例を挙げれば、労働力市場Aから商品を購入していた資本Xが、そこよりも安い労働力市場Bを発見することは、しばしばありうることである。この時、資本Xは市場Aと市場Bとの差異を利用して、利潤をあげようとしているのである。……
 しかし問題は、労働力の価値がさまざまな労働力市場によって異なっていようと、それらは結局、大きな共同主観性のなかの誤差に過ぎないと見えるところにある。それが、「一定の国については、また一定の時代には、必要生活手段の平均的範囲は与えられている」ということにほかならない。もちろん、労働力の価値は、一定の国の一定の時代においても一定ではない。それは、現代のいわゆる先進資本主義国内においてもそうである。マルクスは、高い価値を持つ労働と低い価値しか支払われない労働が、ともに抽象的人間労働として共同主観化されるという事態を、前者の労働は専門的熟練労働として、後者の単純労働の累乗分とみなされるといった言い方で説明したが、今日のわれわれは、そういった説明にはあまりリアリティを感じることができない。……にもかかわらず、労働力の価値は共同主観化され「平均的範囲は与えられている」と考えられるのである。なぜなら、労働力の価値は、「必要生活手段」と等価であるという前提がそこにあるからだ。そのことこそが、労働力の価値の共同主観性の内実なのである。
 これは、当たり前のことのようでいて、決してそうではない。そもそも、労働によって対価としての「必要生活手段」をえられず、他の方途で──窃盗でも遊戯でもよい──それをえることは充分にありそうなことだからである。しかし更に問題なのは、この等価交換という外見が、「必要生活手段」をえられる活動は、全て労働であるという転倒を生むことだ。それゆえ、窃盗も遊戯も労働の外見を与えられうるのである(アダム・スミスにはそういった視角は存在しなかった)。
 これが、先に述べておいたように、労働が「死の脅威」を克服する生命活動と見做された、近代の認識論的布置の帰結にほかならない。端的に言えば、等価交換という共同主観性は、「労働力の価値」は「必要生活手段」と等価であるということに発する。これが成就されていれば──つまり、労働力の対価として、生活の資が与えられていれば──「死の脅威」は隠蔽されうるからだ。逆に言えば、「死の脅威」がなければ、等価交換は存在しえないのである。」
(スガ秀実『小説的強度』)
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