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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<Re: 結合 vs. 連結

「……柄谷にとって価値形態論とは第一形態の問題に集約されるものであった〔参考:http://trounoir.syoyu.net/excerpt/566〕。貨幣ですら第三形態以降にではなく、すでに第一形態の右辺、すなわち「等価形態」に現れている。「等価形態」に立つ商品は、すでに「相対的価値形態」(左辺)に立つ商品の価値を表す「貨幣的なもの」として見られている。柄谷の思考の中に、第二形態以降の問題がほとんど現れないのはそのためである。
 一方先に見たように、スガにとって問題は第二形態と第三形態の「間」にこそあった。スガにとって「他者」というものが仮にあり得るとしたら、第一形態にある「非対称性」ではなく、第二形態のせめぎあいにしかない。……例えば、まさに「六八年」的な詩人として論じられる山本陽子の詩「遺稿」(「しじま/活きてきた、   くうかくが、煌すみおりする/ひとり、ひとりの//」…)について、スガは次のように論じている。
 …………
 山本は第一形態的な「我と汝」関係を「構成することができない」。「にもかかわらず」というべきか、それゆえにというべきか、「「わたし」は「くらがり」という外において、彼らと共にある」。……
 …………
 山本と「わたし」と「彼ら」との関係とは、第一形態的な「我と汝」による「交通」の不可能性の上にある、いわゆる第二形態的なものである。ならばスガのいう「外」が、いわゆる「外」(外部)ではないことも明らかだろう。……すなわち「外」とは、「わたし」が「彼ら」と「共にあ」り隣接していながら、互いに「交通」し得ないような「くうかく」という空間そのものであるというべきである。それは言いかえれば、第二形態の「等価形態」にある諸商品が、隣接していながら交わることはないというあの「換喩」的関係ということになるだろう。……
 …………
 第二形態にある諸商品は、「換喩」的せめぎあいに耐えられず、否応なく「外=一般的等価物」を求め、首尾よく第三形態に移行していこうとする。その時「外」は外として実体化され、「差別」は可視化するだろう。したがって「「外」の外にある」とは、いわばこの「外」が実体化、差別化されること自体のさらに「外」にあろうとするような、一つの「抵抗」としてしかあり得ない。「外」に「引きつけられ、しかも無頓着でいること」(フーコー)、それは言いかえれば第三形態に「引きつけられ、しかも」第二形態の諸商品同士のように「無頓着でいること」ではないのか。……
 ここには、先にみた柄谷行人的な「他者」はいないというべきだろう。事実スガは、「自ら享楽の対象として生み出した「もの」」は、「いかなる意味でも「他者」ではない」と明言してもいる。それは「外」が「いかなる意味でも」「外(部)」ではないのと同断であろう。だが「六八年」が開示したのは、おそらくこの、「他者」(外部)といって切断しきれないある「群れ」ではなかったか。柄谷の「他者」は常にこの「他者」であり、第一形態における「立場」の非対称性として捉えられるために、そこではあくまで「個体」が重視される。したがって第一形態の非対称的な「交換」関係を「整体」することで導かれる、近年の柄谷のアソシエーション理論が、かつての平田清明による市民社会論の「個体的所有」と近似しているとしても、何ら不思議はない。たとえ柄谷においては、「個体」が「単独者」と読みかえられていくにしても。
 一方スガにとって、「個体」など「衣食足りて礼節を知った」者による抽象性の域をでない代物である。「六八年」以降顕著になったのは、就職出来ずにJunk化を余儀なくされている「群れ」であり、「個体」になり得ない「群れ」であった。むろん「群れ」がそのままで革命的であるはずもない。「群れ」は、あくまで第二形態的な「換喩」的関係を志向=思考するかぎりにおいて「戦争機械」(ドゥルーズ/ガタリ)たり得るのであり、それに耐えられずに「代表=代行」する何者かにしがみついた途端、それは第三形態的な「差別」に容易に転化するだろう。」
(中島一夫「隣接に向かう批評──スガ秀実の“六八年”」)
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