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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<性と不等価交換

「だが、〔アンティゴネー的に〕人間が「憑かれて=衝かれて」いく資本の欲動というものが、商品が買われないかぎり発動し得ないこともまた確かだ。ベンヤミンは、だからまた「群集」と「商品」の相即性を見ていた。「遊民は群集のなかに見棄てられてあり、したがって商品と同じ状況を分けもっている」。「遊歩者が身をまかせるこの陶酔は、顧客の騒がしい流れに取り巻かれた商品のそれにひとしい」(「ボードレールにおける第二帝政期のパリ」)。
 これこそマルクスが見た「商品のたましい」というものだろう。商品は売れない孤独に耐え切れず群集の中に紛れ込み、雑踏の中行き交う「あらゆる人間のうちに買い手を見」る。この「商品のたましい」を持ち合わせた「〔志賀直哉「児を盗む話」の〕私」も、やはり孤独を癒そうと群集に向かった。そして何人目かの「買い手」(恋愛対象)として女の児を選び、所有-被所有関係に入ろうとしたのだった。
 だから「女の児を自分のものにしたいと云う慾望」は、潜在的にはむしろ女の児に買われたい、そしてつながりたいという「たましい」であったといえる。勝手に盗んでおきながら、「私」がそのことに対して常に被害者面してしまうのは、エゴイストであるからというよりも、「売る立場」に立つ「商品のたましい」の根源的な受動性からきている。
 だが、たとえ所有-被所有関係に入ったとしても、孤独で不安なこのたましいが完全に癒されるためには、人は売り手ではなく常に買い手の方に立ち続けなければならない。そして、具体的な対象の獲得をもって達成される欲望ではない、目的のないメタフィジカルな衝動=資本の欲動が、ここから発動する。
 すると「所有欲」とはすでに欲動だとはいえまいか。たとえ何かを所有=獲得しても、欲望がとめどなく湧いてきては次々に対象をかえて進んでいってしまうのは、それ全体が常に買い手に立ち続けたいという欲動に貫かれ包含されているからではないのか。誰かとつながってもつながっても、また「踏切り」を越えて群集に向かいたくなるのは、やはりそれに貫かれているからではないのか。」
(中島一夫「踏切りを越えて──志賀直哉の“幼女誘拐”」)
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