「陶芸批評として、色や形や生地や文様の印象から入り、来歴を訪ね、人を見、判断を下すという常識の書式がある。私自身、そこから多くを学びながら、一方で、何かが足りないと感じていた。どんなに言葉を重ねても、それがそこにあり、私がここにいること自体の驚きに匹敵しない。
陶芸に限らない。ある経験とそれを語る言葉は乖離する。知識を身に付けることは美的経験と関係ないとは言わない。むしろ大いに関係がある。ただ、作意を拒絶する作家の作品を見つめるとき、自らが知識の累積という作意に溺れてしまうなら、問題外ではないかと思うのだ。……
……求められているのは、主観的な描写でも、客観的な知識でもない。
自らの受動性に気づくことではないだろうか。
……ある経験を能動と受動に区別すること自体が本当は難しいのだ。
たとえば、私たちの行為がすべて、対象から触発されている。字がなければ字を書くことはない。書がなければ書を読むことはない。食物がなければ食物を食べることはない。当たり前だ。しかしこの当然の事実が、書く、読む、食べる、といった一見すると能動的な行為に没入するとき、忘れられてしまう。そこに錯覚が生まれる。それを作意が加速する。すべての価値が「人間的」なものにおかれる。そうやって私たちは「人間」であることに閉じていった。
魯山人にとって自然はそんな「人間」を打ち破る外部としてあった。たんなる観察対象ではない。自らの実践を促す動的原理として打ち込まれている。たとえば、どんなに傲岸不遜に見えても、彼の存在感覚の根幹は偶然的な受動性に貫かれている。……
これはベンサム=シンガーが「権利」を動物に拡張させるのと真逆である。むしろ、たまたま生きている自分という、この天が造りし動物に驚いている、感謝している。
この自然に対する受動性は、彼が自分を食的存在として見つめるとき、すなわち、生かすことと殺すことが交錯する割烹の場に身を投じるとき、もっとも先鋭化する。
…………
……食べることを非人間的な自然の相から見つめることだ。人間的な作意を拒絶する者たちが行き着く、能動性と受動性が判別不能に乱れる時空。自らを、人間から自然の一部へと、偶然的に受動的に存在するものへと、唯物的に一回転させる力。」
(大澤信亮「批評と殺生」)