「フロイトは一人前の男だった。『夢判断』を書いた時、フロイトはもう、とうに四十を過ぎていた。でも、心の中に、おとうさんをこわいと思う、気持ちがあった。あるんだけど、それを押し隠していた。押し隠さなかったら、現在の自分が自家撞着を起して、バラバラになっちゃうから。
一人前のクセに、実は幼児だ。幼児だけど、でもそんなことは口に出来ない──自分は一人前だということにさせられているから。
話は簡単だ。もうおとうさんがこわくないんだって分った時点で一人前になればよかったのに、まだそんな所まで行かない内に一人前にさせられてしまった──だから、幼児で一人前、一人前のクセに幼児という奇ッ怪なものが出来上る。そして、私はそういうパーソナリティのことを、“おじさん”と呼ぶ。
だから、“おじさん”は一生懸命無理をして、“おじさん”をやっていなければならない──決して幼児にはなれない。男の子にもなれない。
“おじさん”は無理をしている──だから“おじさん”は、他人にも我慢することを強制する。幼児は我慢なんて出来ないもんね。俺の文書を見てみ! マジな口調やってるとスグ疲れて来て“だもんね”に変っちゃう。“おじさん”はこれをいやがる訳。だから“おじさん”は、はじめっから敬称がついている。敬称をつけることを、当然のこととして相手に強制する。“おじさん”は強迫観念を辺り一面に撒き散らしてる。だから、“おじさん”の周りにいる人はちっとも面白くない。だから、素直な人は“おじさん”の周りからみんな逃げちゃう。逃げられない人は、“おじさん”に同化して、一生懸命抑圧的な人間になろうとする。だから、“おじさん”の息子は、簡単に“おじさん”になれる。
フロイトが“おじさん”だったのは、だから、フロイトのおとうさんが“おじさん”だったから。」
(橋本治『蓮と刀』)