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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<ヘーゲル・アンド・セクシュアリティ m9( ゚д゚)っ

「われわれは、自然それ自体をめぐるなんらかの「素朴な」ヴィジョンを提示する誘惑を抑えて、第二の選択肢に固執するべきである──ただし、ひとつのひねりを加えたうえで。ポイントとなるのは、包括的な相対主義ではない。言い換えれば、われわれは主体性〔主観性〕の円環に追い込まれるわけではない。鍵となる問いは、こうである。われわれは「現実的なもの」との接触を、自身の主体性から抜け出すポイントを、どこに求めればよいのか。われわれはまさにこのレベルにおいて、次のように事態を逆転するべきである。現実的なものは、われわれが自分の主体性の痕跡を消去したあとでその輪郭がはっきりと現れる、そうした「客観的現実」として接触可能なものではない、なぜなら自然それ自体に関するあらゆる積極的な規定は、すでにわれわれの立場からなされているからである、と。われわれにとって接触可能な唯一の現実的なものは、われわれの主体性の過剰性である。主観による理解が及ばない盲点とも言うべき領域は、自然それ自体ではなく、われわれという主体性と自然それ自体との調和のありかたなのだ。この盲点となる領域は、主体を欠いた客観的現実ではなく、客体(対象)としての主体それ自体である。主体はけっして自然と調和しない。主体とは、あらゆる存在論的体系における裂け目なのである。したがって、ここにみられる構造も、ある種のループ構造である。現実「それ自体」をめぐる、われわれから独立した事物の「実際のあり」方をめぐる新しいヴィジョン(ニュートンの機械論的宇宙、一般相対性、量子波)が、ますます精密さを増しながら構築されてはいるが、そこにはつねに次のような懐疑がひそんでいるからである。このヴィジョンは、そのへその緒であるわれわれ自身の観点と根っこの部分で結びついているのではないか、そして、それは風船のように破裂するのではないか、と。われわれが〈現実的なもの〉と接触するポイントは、新たな科学的モデルを通じて徐々に接近不能となるX地点ではない。そうではなく、そうしたモデルの構築によってわれわれが埋めようと試みる、現実における裂け目である。より厳密に言おう。(生活世界の)日常的な現実におけるわれわれの住処は、けっして安全な場所ではない。ここには、この住処を崩壊させるおそれのあるギャップがつねに潜んでいる。そして、直観に流されない科学的(あるいは形而上学的)説明──これをわれわれの日常的経験に変換することは、ますますむずかしくなっている──は、まさにこのギャップを懸命に埋めようとしている。つまり、われわれの主観的観点から独立した事物のありようを「完璧に」記述しようとしている。だが同時に、こうした補足としての説明はその正体、虚構という正体を暴露されるおそれがある。それゆえに、現実的なものとの唯一の接触点となるのは、ギャップそのもの、すなわち、日常的な生活世界とその科学的補足とのあいだの移行ポイントである。
 したがって、われわれのさらなる前提は次のようになる──超越論的次元は、破綻した存在論の効果、あらゆる存在の秩序は構成上、内的な不可能性によって妨げられている、蝕まれているという事実の効果として発生するだけではなく、この妨げ自体が超越論的次元の形式そのものに刻印されてもいる。つまり、超越論的形式はそれ自体矛盾をきたしており、その内部に敵対性を抱え込んでいるのである。このことを明確に述べたのは、最初に超越論的次元について議論を展開したカントであった。要するに、超越論的次元は存在論の失敗(即自に到達できないこと)を含意しているだけではなく、それ自身のアンチノミー(「純粋理性のアンチノミー」)を必然的に生み出すのである。
 次の重要なステップはカントからヘーゲルへの移行である。アンチノミーは理性とその超越論的空間だけに関わるのではない。それは(超越的な〔現象の向こう側にある〕)現実それ自体の特徴である。言い換えれば、われわれが〈即自〉に接触するのは、われわれの理性の欠陥のしるしであるアンチノミーを克服することによってではなく、われわれの欠陥を現実それ自体に刻印された欠陥と同一視することによってである。この共有された欠陥は、現実と超越論的次元とが重なり合うゼロレベルである。
 ここで踏むべき第三のステップでは、フロイト派およびラカン派精神分析が関わってくる。人間存在においてこの「欠陥」に付けられた名前は、セクシュアリティである──これがフロイトの暗黙の(ラカンによって明確化された)前提である。セクシュアリティとは、文明化された生活の自然の基盤ではなく、人間という動物の生活を「文明化する」きわめて根本的な身振りである。これは、われわれにとってもっとも重要なフロイト的前提である。つまり、労働でも言語でもなく性こそが、われわれ(人間)が自然から切断されるポイントなのである。性とは、われわれが存在論的な不完全性に直面し、無限の自己再生産というループ──欲望のねらい(aim)が欲望の目標(goal)ではなく、その目標の欠如の再生産になるというループ──にとらわれる場なのである。
 …………
 ……ある特定の活動ないし過程がその形式的側面において「セクシュアリティになる」のは、その活動ないし過程の目標(goal)が到達可能なものの領域から除外されて到達不可能なものになり、その結果、目標に達することによってではなく、目標に達するのに繰り返し失敗する過程そのものによって満足が得られるようになるときである。たとえば、単純な喉の渇きがエロティシズムをもたらす口唇欲動に変容した場合、何かを飲む、あるいは吸い込むことがねらいとするのは、渇きをいやすことではもはやなく、吸うという行為自体の、快楽をもたらす反復的な経験である。ブーメランが人間と呼ぶにふさわしい最初の道具であると言えるのは、このためである。ブーメランは、表向きは動物(たとえばカンガルー)に命中させるためのものだが、その真の技術は、それが目標を撃ち損じて投げた人に戻ってきたときにキャッチすることにある。ブーメランを投げて戻ってきたところをキャッチするという動作全体を首尾よく繰り返すことの快楽、それは想像に難くない。性行為それ自体はその目標として射精と妊娠を含意しているが、人間の性別化(sexuation)とともにそれ自体がひとつの目的となる。そしてわれわれはこのことを、人間の定義そのものにまで拡張するべきである。人間と動物を最終的に分かつものは、積極的な特徴(ことば、道具の作成、反省的思考、等々)ではなく、フロイトとラカンが〈物 das Ding〉と呼んだ新たな不可能性のポイントの発生、欲望における不可能な-現実的な究極の参照点の発生である。科学的実験でしばしば指摘される人間とサルの差異は、ここでその重要性をいかんなく発揮する。手のとどかない対象を前にしたサルは、それを得ようとして何度か失敗するとそれをあきらめ、より手に入れやすい対象(たとえば、それほど魅力的ではない性的パートナー)に移っていく。それに対し、人間はあくまでそうした対象を得る努力に固執する、つまり、不可能な対象に固着したままになる。主体自体がヒステリー的なものであるのは、このためである。ヒステリーの正体とは、まさに享楽(jouissance)を絶対的なものとして措定する主体なのである。この主体は、満たされない欲望というかたちを借りて、享楽という絶対的なものに応答しているのだ。そうした主体は、ゲームの枠の外にある項目と関係することができる。その主体は「場違いの」項目との関係によって支えられるしかない主体でさえあるのだ。したがって、ヒステリーとは、不可能性というポイントを絶対的な享楽というかたちで設定する、基本的で「人間的な」方法である。」
(ジジェク『性と頓挫する絶対』)
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