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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<好き ∞ 嫌い

「フロイト曰く、モーセはユダヤ人ではなくエジプト人だった、後にユダヤ民族となる部族は彼によってエジプトの一神教を強制されたが、ついにはこの異邦人を殺害してしまった、そして、その忌まわしい外傷的記憶を抑圧することによってユダヤ民族を創設したのだ、云々。最晩年のフロイトは『人間モーセと一神教』で、ユダヤ人の常識と完成を逆なでするこの大胆不敵な仮説を精神分析的に論証しようとして、マルティン・ブーバーをはじめとする多くのユダヤ人から猛烈な反発を招いた。たしかにユダヤ精神の伝統から見ても歴史学から見ても検証不能な暴論にちがいない。だが、フロイトの異様な推理を導いているのは、彼の精神分析を貫徹している臨床的直観だ。その根底には、彼がそこから様々な精神分析的洞察を導き出した次の公式が露呈している。「自己の起源にあるのは他者であり、自己が自らで成り立っていると考えるのは幻想に他ならない」(十川幸司『精神分析』)。
 注意すべきは、ここでの他者は単に私とは異なる部外者(私との差異を尊重しなければならない異者)ではなく、私のアイデンティティの根拠でもあるということだ。私は私であろうと努めるべきだ。しかし、〈私を私たらしめているもの〉は私のうちにはなく他者のうちにある。私はそれをこの他者においてしか見出せないのである。この場合、他者は私にとってもっとも強烈な憤激の対象として現れる。逆から言えば、或るひとが私にとって生理的に不快で、理屈を超えた次元で苛立たしくて仕方がないとしたらそれは、そのひとがいると〈私を私たらしめているもの〉を私自身のうちにではなくそのひとのうちに見出すことを無意識に強いられているからであることが多いというのは経験の教えるところではないか。
 現実政治の文脈に戻してパラフレーズしよう。〈ユダヤ人をユダヤ人たらしめているもの〉は、ユダヤ人自身のうちにはない。それはただ、彼らの外部に立つ他者、たとえばパレスチナ人のうちにある。この場合、ユダヤ人は自身のアイデンティティの根拠をこの他者においてしか見出せない。しかし、彼等が自身の根拠をこの「エジプト人モーセ」において認知しようとすればするほど、強烈な憤激と抵抗が彼らのうちに生じる。だから、彼らはこの「エジプト人モーセ」を抹殺して〈ユダヤ人をユダヤ人たらしめているもの〉をただ自分たち自身のうちにのみ見出そうとする。しかし、そもそもそれがユダヤ人のうちには見出せないものである以上、自身のうちだけでアイデンティティを確立しようとする試みは、つねに空をつかまざるをえない。このため、かりにイスラエルという国家やエルサレムという都市を物質的に確保しても、いやそうすればそうするほど彼らの精神の中心は空虚と不安と動揺にさらされ、やがていっそうヒステリックな攻撃性に走ることになる。」
(山城むつみ「モーセがパレスチナ人だったとすれば…」)
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