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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<ただしい資本主義

「現在の「韓流ブーム」を特徴づけているのは、韓国が、もはや理解可能な存在と認識されつつあるということだろう。八八年のソウル・オリンピックを契機として(それと前後して)、これまでにも何度も小さな韓国ブームが存在した。しかし、それらは「近くて遠い国」という韓国を規定した言葉からも知られるように、本質的にはエキゾティシズム=オリエンタリズムによって担保されていたのであり、それゆえ韓国は理解困難な、しかし魅力的な「他者」として措定されていたといえる。それは、サイードの規定したオリエンタリズムなる概念がそうであったように、自らの(日本資本主義の)欲してかなえられぬ欲望を投影させた「他者」であったが、同時にそれは、日本人から享楽を盗み取る者と考えられた「他者」でもあった。小松左京や開高健から梁白石にいたる作家が描いた大阪猪飼野の「アパッチ族」なる在日朝鮮人・韓国人たちは、そのような両義的な存在の典型ではなかったか(彼らは、旧日本軍の埋めた膨大な屑鉄を盗掘していた)。そうであるがゆえに、韓国人は差別され、ひそかに羨望もされたのである。ところが、「冬ソナ」の清純な恋愛は忘れていた六〇年代の日本を思い出させる(吉永小百合? 日活青春映画?)、などといった言説からも知られるように、今や韓国は「他者」ではない、十分に認識可能な「近い」国となったのだ。
 いうまでもなく、韓国が「他者」であったのは、日韓条約締結以降の韓国が、日本資本主義を凌駕するかのごとき発展を見せていたからである。もちろん、日本は、そのような事態に、おおむね、タカをくくって応援してきた。だからこそ右派は、凌駕されることの恐怖を、「日韓併合にもよいところもあった」とか「創氏改名は韓国側からの要請だった」などといった放言でやりすごそうとしてきたのだし、左派はPC〔ポリティカル・コレクトネス〕的に日帝支配の歴史に「恥じ入り続ける」と、これまた言うばかりであったのだ。
 これらは、実は、表裏一体の「無責任な」対応である。前者については言うまでもなかろうが、後者の無責任なゆえんについて一言しておけば、その「自虐的」とも評される「もっと、もっと(糾弾を)」というPC的な主体のありかたが、実は、不断に拡大再生産に向かって行く、後期資本主義において全面開花した「資本」という主体と相同的であるからにほかならない。「資本」もまた、「もっと、もっと(拡大再生産を)」という以外には言う言葉を持たないのだ。PC的な主体がいかがわしいのは、資本主義的な「悪」の歴史を反省しているようでいて、自らは、それに加担する主体をモデルにしているところに無自覚だからだろう。九〇年代日本におけるPC的主体の登場は、バブル経済の崩壊と長期不況下における、「資本」の拡大再生産の新自由主義的努力に対応していたと言うべきである。
 しかし、今や問題は、そのようなPC的主体が機能失調に陥りつつあるということだ。」
(スガ秀実『タイム・スリップの断崖で』)
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