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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<相互無意識過剰

「……主体は、そのもっとも基本的なあり方としては、受動化、無為、退隠といった身振りであり、その経験も受動的である。主体とは、「現実がシニフィアンにより被るもの」(ラカン)であり、主体の活動は、その受動性という基本的特徴に対するリアクションなのだ。それゆえ、オブジェクト指向存在論(object-oriented ontology)は主体性を考慮に入れてはおらず、多数の対象のなかの一つの対象の属性や特質に主体性を縮減しているだけなのである。OOO〔オブジェクト指向存在論〕が主体として記述しているものは、主体の基準をまったく満たしていない──OOOには主体の存在する場所はない。
 これが意味しているのは、OOOには空想が存在する場所もないということである──それは空想化において示された内的生の豊かさは主体の基本的特徴であるという、ごく単純な意味においてではなく、これとほとんど正反対の意味においてである。つまり、脱主体化された主体から分離されたものである空想は、主体のものでありながら主体には接近不可能なものである、という意味においてである。
 『めまい』〔アルフレッド・ヒッチコック監督、一九五八年〕の冒頭における魔術的な瞬間を思い出そう。レストラン「アーニー」で主人公のスコティはマデリンをはじめて目にする。〔食事を終えた〕マデリンと夫のエルスターが席を立ち店を出ようとしてスコティのいる方向に歩いてきたとき、スコティは〔マデリンを偵察するという〕任務がばれないように、バーカウンターの向こうの鏡の方に目をそらしながら、かろうじて自分の肩越しにマデリンをのぞき見る。マデリンがスコティの近くにきて立ち止まった瞬間(このとき彼女の夫はウェイターと立ち話をしている)、われわれ観客はマデリンの謎めいた横顔を目にする(横顔はつねに謎めいている。われわれには顔の半分しか見えないので、もう片方は醜く嫌な顔なのかもしれない。実際その片方の顔は、ジュディという若い女性──この女性がマデリンになりすましていたことが後に明かされる──の、「真実の」、平凡な顔であるといえるかもしれない)。
 まさにマデリンの横顔がスコティの視点から見られたものではないかぎりにおいて、彼女の横顔のショットは完全に主観化されている。このショットは、スコティが実際に見ているものではなく、彼が想像しているものを、つまり彼の内面にある幻覚のような情景を描いているのだ。こう考えると、スコティが、マデリンの横顔を見てはいないがなぜかそれに魅了され深く影響を受けているかのように振る舞うのも不思議ではない。主体に帰属することなく主観化されている以上の二つのショットからわれわれが手にするのは、純粋な非-主観的現象である。マデリンの横顔は純粋な仮象であり、そこにはリビドーが過剰に備給されている──ある意味でそれは、あまりに強烈で主観的すぎるので主体には担いきれないものなのである。……それは主体から分離された空想なのだが、主体を前提とし続ける空想である。」
(ジジェク『性と頓挫する絶対』)
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