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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<ジャック・ラカン VS ジュディス・バトラー

主観化されえない空想という概念によって、われわれはラカン的主体を構成する「原抑圧」へと連れもどされ、線で消された主体(/S)というラカンの概念と、主体性というジュディス・バトラーの概念との違いを、「原抑圧」を通じて説明できるようにもなる──まず、ラカンの主体概念に対するバトラーの批判を詳しく検討してみよう。ラカンの理論とバトラー自身の理論は、主体化を促す呼びかけ(象徴的同一化)は不完全であるという前提を共有している。これがバトラーの出発点である。しかし、不完全であることの正確な意味合いは両者で異なっている。バトラーにとって、主体性のなかの、呼びかけによって排除または無視される部分は歴史的に変わりうるものであり、したがって変化しやすい(排除または無視される部分は、主体の象徴的アイデンティティに再統合される可能性がある)。このような考え方からすれば、ラカン理論における主体を分割する棒線は、非歴史的/超越論的なア・プリオリにみえざるをえず、このア・プリオリはヘゲモニー〔支配的な立場、覇権〕をめぐる政治闘争の形式的な条件である以上、そうした闘争にも無関心である。
 …………
 バトラーがここで語っている主体は、相変わらずリベラルな主体であり、主体の同一化の内容を絶えず拡大し続けるプロセスにかかわる主体である。「私はヘゲモニーを、以下のように理解している。ヘゲモニーの規範的で楽観的な契機は、まさに、リベラリズムの主要概念の可能性を民主主義が拡大する可能性のなかに存在し、この契機はリベラリズムの主要概念を、さらに包括的に、さらに動的に、さらに具体的にする」。したがって、排除を行う「棒線」は支配的な社会規範によって規定されているのだが、この社会規範は変化して、排除されているものを包含し、より広い普遍性と交渉する可能性をもっている。バトラーが繰り返し言及する典型的な具体例は、もちろん規範的異性愛であり、これはほかのセクシュアリティの形態を、排除するか二次的な逸脱ないしは異常とするものである。だがヘゲモニー闘争によって、主体はセクシュアリティという概念を拡大し、異性愛ではない形態(ゲイ、レズビアン、トランスジェンダー、等々)をすべて等しいものとしてセクシュアリティの概念に含めることになるだろう、というわけである。しだいに拡大していく普遍性の諸形式と交渉することを求めるヘゲモニー闘争という考え方を通じて確認できるのは、バトラーの企図はリベラリズムという枠の内側にとどまっているということである。主体を消す棒線は、主体という概念そのものに書き込まれているのではなく、一連の偶発的な排除が不完全であることを示しているのであり、こうした排除は、たとえそれが果てしなく続くプロセスを意味しているとしても、しだいに解消できるというのである。バトラーはつねに歴史性を強調しているが、「規範的で楽観的な契機」をともなう主体という概念が──主体の自由を徐々に絶え間なく拡大していくことにかかわる行為体として──特定の歴史的文脈に根差していることは明らかだ。その歴史的文脈とは、さまざまな権利と自由を漸進的に拡大することを唱える進歩的リベラリズムである。……たとえば(バトラー自身が挙げている例によれば)、ある男性が同性愛行為を行うことをまったく受け入れることができず、ひどく不快に思い、自分のアイデンティティとは完全に異質な行為だと感じる場合、これは、男性が抱いているセクシュアリティの概念にゲイの実践を含めることができないということを意味している。
 ラカンにとって棒線は、バトラーが語っているような、主体のアイデンティティの承認された部分と承認されていない(除外された)潜在力とを分割する棒線ではない。ラカンのいう棒線は、対象性〔客体性〕の全領域、対象〔客体〕としての内容の全領域から主体を除外するものであり、何かを(別の何かからではなく)無から、主体「である」無/空無から除外するものである。この棒線は、何かを除外するのではなく、無/空無そのものを除外するのだ。棒線が意味しているのは、主体は対象〔客体〕ではない、ということにすぎないのである。この意味で、棒線は主体を構築するものであり、フロイトが原抑圧(Ur-Verdrängung)と呼んだものにラカンがつけた名前なのである。原抑圧とは、規定された内容は何であれ無意識の方へ抑圧するということではなく、空無──のちにこの空無は抑圧された内容によって埋められる──をつくることなのだ。端的に言えば、(主体になる前の)主体は呼びかけられ、その呼びかけは失敗し、主体はその失敗の帰結として生み出される。主体は、主体になろうとすることの失敗によって生じる空無なのである。
 しかしながら、対象化〔客体化〕を逃れる空無としての主体は、ラカンにとって最終審級ではない──もしそうなら、われわれはラカン的主体ではなく、自己を否定する空虚であるサルトル的主体を論じていることになるだろう。ラカンのいう主体は脱中心化されているわけだが、それはたんに、主体の精神生活が、定義上意識できない神経学的過程によって規定されているという、神経生物学的な意味においてではなく、これよりはるかに広い意味においてである。すでに論じたように、主体が存在し、その同一性が維持されるのは、主体の精神の中身──そのトラウマ的な核、フロイトが「根源的空想」と呼んでいるもの──が、主体にとって接近不可能であり、主観化されえず、主体に受け入れられず、その象徴的世界に統合されることがありえない、という条件の下においてである。もしも主体がその精神の中身に接近しすぎると、主体は崩壊してしまう。これが意味しているのは、ラカンのいう主体は対象をもっていないわけではない、ということである。主体は、主体に対応している対象から、その根源的空想から分離されているときにのみ存在するからだ。こうしてわれわれは、バトラーが拒否するもの、つまり乗り越えることのできない超歴史的な棒線(主体とその根源的空想との分割線)という概念にもどっていることになるのだろうか。そうではない。ラカンは次のことを前提としている。すなわち、われわれは──根源的空想を主体に統合/主観化するのではなく──それを宙吊りにする、その構造化する力を停止させることができる、ということを。ラカンはこの根本的な動き〔宙吊り/停止〕のことを、「空想を突き抜ける」と呼んでいる。もちろんこの動きの代価は高い。それは、ラカンが「主体の解任」と呼ぶものをともなうからだ。「主体の解任」とは、主体が消失することではなく、主体が零度にまで縮減されること、主体の象徴的世界の全体が崩壊し、それからまた再生することを意味している。この切断〔宙吊り/停止〕は、解放に向かう進歩のモデルとしてバトラーが記述し唱道する、主体化される内容を漸進的に拡大していくことよりもはるかに強烈である。この切断は、何をもって進歩と考えるのか、ということを判断する場合の尺度や基準を変えてしまうからである。おそらく(そうあってほしいのだが)、こうした切断に類することは、MeToo運動に見られるような、男性と女性との関係におけるラディカルな変化として現在生起しつつある。このような変化は、近代の解放の歴史において進歩以上のものである。なぜならば、性的差異という概念を(おそらく)有史以前の時代から今日まで支えてきた「根源的(イデオロギー的)空想」が、この変化によって宙吊りにされ停止されるからである。」
(ジジェク『性と頓挫する絶対』)
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