忍者ブログ

Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<失敗を定められた真実

「ラカンによれば、他者の三つの様態を区別する必要がある。まず想像的他者──わたしの似姿(semblant)、わたしに似ていると同時にライバルでもある相方であり、承認を求める争いで闘わざるをえない相手である。次に象徴的〈他者〉──わたしとわたしの似姿がやりとりを行う空間を規制している、主体を超えた象徴秩序である。最後に現実的な〔リアルな〕他者がいる。この〈他者〉の欲望の計り知れない深淵は、神の絶対的〈他者性〉にまで高められる可能性がある。主体とその不可解な〈他者〉とを分かつこのギャップを克服する鍵は、またしても、この〈他者〉を我有化することにではなく、超越論的な〈他者自体〉をわたしの〈自己〉の核心へと移動させることにある。わたし自身が、絶対的〈他者性〉という衣をまとった不可解な核なのであり、そういうわたしにわたし自身が出会うのである。
 われわれは社会的-政治的経験において、これと同じギャップの別のかたち、つまり異なった「生き方」の通訳不可能性という見かけをとったギャップに出会う。別の生き方、われわれには計り知れない、享楽を得るための集団的様式もまた〈他者性〉の姿ではないだろうか。この場合、(政治的権利の、市場の)普遍性と、生き方として具体化された〈他者性〉とを一致させるにはどうすればよいのだろうか。直接的な解決方法──あらゆる差異を超えてわれわれを一つにする普遍性を主張することと、異なった生き方の、埋めることのできない差異を受け入れること──はどちらも失敗する運命にある。解決方法は、またしても、神秘を二重化することにある。〈他者〉の神秘は〈他者〉自身にとっての神秘である、というように。〈他者〉を把握することにわれわれが失敗するのは、〈他者〉が自分自身を把握しようとして失敗することの反映なのだ。われわれと〈他者〉を一つにする普遍性は、われわれと〈他者〉が共有する具体的特徴にあるのではなく、この失敗それ自体のうちにある。これと同じことが、謎めいた〈他者性〉とのこうした出会いの原型であるセクシュアリティについてもいえる。……この移行〔=他者という謎から他者における謎へ〕は、すでに言及した、「古代エジプト人という神秘は、古代エジプト人にとっての神秘でもあった」という、スフィンクスに関するヘーゲルの格言を変奏したものであることは明らかである。
 …………
 冥い神(Dieu obscur)、捉えがたく不可解な神という概念についても、以上のような移行を完遂することが決定的に重要なのではないか。このような神は、神自身にとっても不可解であり、影の側面をもち、他者性を、自身以上の何かを自身のなかに抱え込まざるをえないのではないだろうか。おそらくこれによって、ユダヤ教からキリスト教への転換が説明される。ユダヤ教が神という謎の水準にとどまっているのに対して、キリスト教は神自身における謎に移行している。啓示と神における謎は、御言葉における/を通じての啓示としてのロゴスという概念に対立するどころか、両者は厳密に相関しているのであり、同じ一つの身振りの二つの側面なのだ。すなわち、キリストが、人類に対してだけではなく神自身に対しても神を顕現させるために現れ出なければならかったのは、まさに神が神自身において、かつ神自身に対しても謎だからであり、神が神自身のうちに計り知れない〈他者性〉を抱えているからなのである。キリストを通じてでなければ、神は自身を神として完全に現実化できないのだ。言い換えれば、イエスの有名な言葉、「彼らを許したまえ、彼らその為すことを知らざればなり」は、神自身にも適用されなければならない──究極的に、神はその為すことを知らないのである。その帰結として次のようなことも理解できる。人種差別の基本的前提(反ユダヤ主義がその典型だ)はまさしく、〈他者〉(ユダヤ人)は自分の為すことを完全に知っており、密かに裏で糸を引いている、という思い込みであるということを。
 話をもどそう。セクシュアリティは、われわれにとっての不可解な謎という意味で神秘的なのではない。セクシュアリティは、それ自体に対しての謎であり、欲望の対象-原因という謎、「他者はわたしに何を求めているのか」という謎なのであり、この謎がセクシュアリティを機能させているのである。この意味で象徴秩序の座標は、われわれが〈他者〉の欲望の袋小路に対処するために必要なものなのだが、問題は、象徴秩序が最終的にいつも機能不全に陥る〔失敗する〕ということである。ラプランシュ〔1924-2012年。フランスの精神分析家〕が指摘したように、「原光景」のトラウマ的な衝撃、つまり〈他者〉の欲望を表すシニフィアンの謎は、象徴秩序の機能に完全には「止揚」されえない過剰を生み出してしまう。人間という動物に欠けているという意味で悪名高い「欠如」は、たんに否定的なもの、本能という座標の欠如を意味するのではない。それは、過剰の別名としての欠如、トラウマ的な享楽が過剰に現前していることの別名としての欠如なのである。ここにあるパラドクスは、過剰な、シニフィアンをもたない、エロティックな魅力と愛着があるからこそ意味作用が可能になるということである。」
(ジジェク『性と頓挫する絶対』)
PR

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。

プロフィール

HN:
trounoir
性別:
非公開

P R