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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<見るなや

「実践的な面でも理論的な面でも、いくつかの概念が遊牧民芸術とそれを継承するもの(蛮族、ゴチック、現代)を定義するのに適している。まず、遠くからの像と区別される「近接像」である。それはまた、光学的空間と区別される「触覚的空間」、というよりはむしろ「把握的空間」とでもいうべき概念である。把握的という言い方は触覚的という言い方よりも適切である。というのは、把握的という言葉は二つの感覚器官を対立させないで、眼もそれ自体で光学的な機能以外の機能を持つと考えさせるからである。アロイス・リーグルは賞讃すべきページを書いて、この近接像-把握的空間という対概念に、美学上の根本的な地位を与えた。とはいえここでわれわれは、リーグルによって(次にはヴォーリンガーそして今日ではアンリ・マルディネによって)提出された規準をいったん無視し、あえて一歩踏み出して、これらの概念を自由に使ってみよう。われわれには〈平滑なもの〉こそが、近接像の特権的な対象であるとともに把握的空間(触覚だけでなく視覚にも聴覚にもあてはまる)の要素でもあるように思われる。反対に、〈条里化されたもの〉は、より遠くからの像、より光学的な像の方に依拠しているようだ──眼だけがこうした像を持つ唯一の器官だとはいえないにしても。次にここでもまた何らかの変形によって修正することが必要となる。このような変形において、平滑と条里のあいだの移行は、必然であると同時に不確定で、一瞬にしてすべてが変わるほどである。相対的に遠くから見るものだが、描くのは近くからというのは絵画の法則である。物を離れて見るのはいいとしても制作中の絵を離れて見る者は良い画家とはいえない。実は「物」についても同じことがいえるのだ。麦畑をもはや見ないこと、麦畑に近づきすぎて目印を失い、平滑空間のなかで迷わなければならないとセザンヌは言っていた。条里化はその後でも起こるだろう。デッサン、地層、大地、「幾何学という頑固者」、「世界の尺度」、「地質学的な基盤」、「すべてが鉛直に落ちていく」……。次は条里化されたものが、「カタストロフ」の中で消滅し、新たな平滑空間ができ、次にはまた別の条里空間がやってくる……。
 離れて見られるものとは言え、一枚の絵は近くで描かれる。同じように、作曲家も聞かないと言われる。聞く者は遠くから聞くのに対し、作曲家の聴き方は接近した聴き方だ。また、読者は長続きのする記憶を持つとされるのに対し、作家自身は、短い記憶によって書いている。把握的な近接像による平滑空間の第一の相とは、方向、指標、接続が連続変化するということ、近傍から近傍へと作用していくということである。砂漠、ステップ、氷原または海は、ひたすら連結による局所的空間である。よく言われるのとは反対に、こうしたところでは遠くから見るのではないし、遠くからこれらを見るのでもない。何かの「正面に」いるわけでも「内部に」いるわけでもない(ただ何かの「上」にいるのだ)。方向は一定せず、植生、関心事、一時的な急ぎの用などにしたがって変化する。指標は視覚的モデルを持たないのだ。」
(ドゥルーズ+ガタリ「平滑と条里」)
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