忍者ブログ

Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<Re: Re: 疎外だのみの芸術家

「解放派のいう「感性の解放」も、否定的な疎外からの回復をめざすと同時に、肯定的な疎外概念に依拠することで、はじめて可能なロジックである。なぜなら、それはプロレタリアートなり学生なりの「感性」の表現=表出(化肉!)を賞揚することにほかならないからだ。かかるローザ主義は、それがいかにレーニン的な党の表象=代行能力に対する批判を意味しているにしても、最終的にはレーニン主義に帰結する。ローザ主義もまた、表象=代行の「主体」──それは結局、「党」ということになるほかない──を立てることを希求しているからである。六八年革命時も含めて、六〇年代のニューレフトが、カウンターカルチャーのムーヴメントと随伴した過半の理由もここにある。それは既存の文化への「対抗」、すなわち疎外された社会状況への批判であると同時に、芸術家という「主体」の表現(疎外!)行為と見なされたのであった。
 …………
 ウォーラーステインは、「反文化運動〔カウンター・カルチャー〕は、革命の陶酔の一部であったけれども、政治的には一九六八年の中心部分にはならなかった」(『ポスト・アメリカ』)と述べている。確かにそのとおりであり、七〇年代から八〇年代に明らかになったごとく、カウンターカルチャーが消費資本主義のなかに吸収される側面を持っていたことは否定できない。しかし、それは疎外論的文脈において捉えられた文化運動としてであろう。疎外革命論批判とは、「感性の解放」という名の「革命陶酔」に対する批判でもあるはずだからだ。六八年において提起された疎外論批判は政治=文化を貫いて、今なおのりこえ不可能な問題性を維持していると言わねばならない。」
(スガ秀実『革命的な、あまりに革命的な』)
PR

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。

プロフィール

HN:
trounoir
性別:
非公開

P R