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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<Re: 失敗を定められた真実

「性的差異を(意外に思われるかもしれないが)例にとろう。あらゆる性的立場を、漏れがないように拾い上げるべく網羅的に分類するという問題を解決するために、LGBTイデオロギーは、分類からこぼれ落ちるあらゆる立場を収容する+という記号を付け加える。LGBT+というふうに。しかしながら、これによって次のような問題が出てくる。この+は「等々」のような分類から漏れた立場を表すものなのか。それとも、ひとは直接この+そのものになれるのか。ひとは+になれる、これが弁証法的と呼ぶにふさわしい答えである。一連の立場のなかには、明らかにそれに属さない、それゆえにプラスを具現する、例外的な要素がつねに存在するのだ。LGBT+のリストの場合、そうした要素になりうるのは、「同志 allies」(LGBT以外の「誠実」な個人)あるいは「非性愛 asexual」(セクシュアリティ全域の否定)あるいは「クエスチョニング」(決まった立場をとることができない浮遊状態)である。(ちなみに「同志」は、まさしくスターリン主義者が発明した「サブクラーク」と同じ役割を果たしている。それは一見するとジェンダー・アイデンティティの一覧表のなかの一要素であるようにみえるが、それが実際に表しているのは、ジェンダー・アイデンティティに対する、それ自体はなんのジェンダー的特徴ももたない主体的立場にすぎない。)ここでは、「非性愛」「クエスチョニング」「同志」がある種のヘーゲル的な三幅対〔普遍-特殊-個別〕を形成していることに注目せざるをえない。われわれは普遍的存在としてはみな非性愛的であり、特殊なアイデンティティに関してはつねに自己に疑問をもっており、個別的な倫理的-政治的課題については同志であるべきなのだ、というふうに。では、われわれはこの三幅対にどのようにかかわるべきなのか。この三要素をセクシュアリティの普遍的な構成要素として肯定すること、それが唯一の正しい道である。つまり、性的存在となったかぎりにおいて、われわれはみな自分の性的アイデンティティに「疑問をもって」おり(自己のアイデンティティの不確実性は性的存在の構成要素である)、みな潜在的には「非性愛」であり(われわれはみなセクシュアリティからいずれ逃れたいという誘惑に駆られている。なぜならある種の確実性を得るには、そうするしかないからだ。セクシュアリティのかたちはどれも特殊であるため、普遍的に性的であるためには非性的という姿をまとうしかない。このようにして類としてのセクシュアリティは、その対立規定のなかでそれ自身の種と出会う)、みな「同志」なのである(解放論的視点に立てば、われわれはおたがいを解放闘争における「同志」とみなすべきである)。
 しかしながら、ラカンの立場から言えば、われわれは無限の倫理的課題(〔承認の〕仕事に終わりはなく、つねに、新たなアイデンティティが現れたり見いだされたりする)から存在論的な行き詰まりへと移動するべきである。アレンカ・ジュパンチッチが述べたように、性的差異のもっとも簡潔な定式はM+、つまり、男性的(ファルス的)アイデンティティとそれに付け加えられた何かである。女性性は、男性性とは別のアイデンティティではない。男性のポジションを補完する、それと反対のポジションではない。そうではなく、女性性は男性のポジションに対する不可能な補足(代補 supplement)なのである。分類におけるこの失敗こそ、セクシュアリティである。したがって、性に関する分類はつねに失敗する、と言うだけでは不十分である──アイデンティティの失敗こそがセクシュアリティティを構成するのだから。これはもちろん、女はいくぶん男に劣るものである、男性のアイデンティティに付加されたたんなる謎めいたものである、という意味ではない。逆である。+は、あらゆるアイデンティティに対する懐疑(questioning)としての主体性そのものを表すのである。自分に課されたアイデンティティを懐疑することがヒステリーの基本的特徴である以上──ヒステリー患者のいだく最終的な問いは「わたしはなぜ、あなたによってその身分を定められたようなわたしであるのか」である──そしてヒステリーが女性的なものである以上、いまやわれわれは、性的差異が(M/Fではなく)M+と書かれる理由を理解できる。女性のポジションとは、アイデンティティを懐疑するポジションなのだ、と。残念ながら、トランスジェンダー・イデオロギーの大部分に浸透しているのは、ジェンダー・アイデンティティの新たな分類を設けるという(「男性的」で強迫観念的な)衝迫である。
 …………
 問題の核心はここにある。標準的で規範的な性的対立を「脱構築」する、その対立を存在論的に考えないようにする、その対立を様々な軋轢や矛盾に満ちた偶発的な歴史的構築物としてとらえる──こうした営為においてLGBT運動は正しい。しかしながら、この運動はこの営為における緊張状態を、性的立場の複数性が男性的と女性的という二項対立、この拘束衣のような規範に強制的に押し込められている、という事態に変換してしまう。そのもとにあるのは次のような考え方である。われわれがこの拘束衣を脱ぎさえすれば、多種多様な性的立場(LGBT等々)があふれんばかりに開花し、各々の立場は存在論的な一貫性を得ることになる。二項対立という拘束衣からいったん抜け出してしまえば、わたしは自分をゲイ、バイセクシュアル、等々として認識できるようになる、と。しかしながら、ラカンの立場から言えば、〔性関係における〕敵体性としての対立は、他に還元されるものではない。それは性的なものそれ自体を構成するものであり、分類をどれだけ多種多様化したところで、その対立からわれわれが解放されることはない。」
(ジジェク『性と頓挫する絶対』)
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