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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<推定無罪の非政治性

「スピーチの内容については解釈しないつもりだったのだが、ちょっとこれはないだろうという論評を目にしたのでついでに批判し、さらに「壁」と「卵」についてのイメージを深めてみたい。

「このスピーチが興味深いのは「私は弱いものの味方である。なぜなら弱いものは正しいからだ」と言っていないことである。/たとえ間違っていても私は弱いものの側につく、村上春樹はそう言う。/こういう言葉は左翼的な「政治的正しさ」にしがみつく人間の口からは決して出てくることがない。/彼らは必ず「弱いものは正しい」と言う。/しかし、弱いものがつねに正しいわけではない。/経験的に言って、人間はしばしば弱く、かつ間違っている。/そして、間違っているがゆえに弱く、弱いせいでさらに間違いを犯すという出口のないループのうちに絡め取られている。/それが「本態的に弱い」ということである。/村上春樹が語っているのは、「正しさ」についてではなく、人間を蝕む「本態的な弱さ」についてである。」
内田樹の研究室 「壁と卵」http://blog.tatsuru.com/2009/02/18_1832.php
 まったく同意できない。
 村上春樹のスピーチの曲解である。
 内田は、弱いことが間違いの原因であり、「間違っているがゆえに弱く、弱いせいでさらに間違いを犯す」、それが人間の「本態的弱さ」であると定義づけている。この理屈は、〈強さ/弱さ〉の内部に〈正しさ/間違い〉を巧妙に持ち込んでいる。
 …………
 村上はこう言っている。

「「高くて、固い壁があり、それにぶつかって壊れる卵があるとしたら、私は常に卵側に立つ」ということです。そうなんです。その壁がいくら正しく、卵が正しくないとしても、私は卵サイドに立ちます。他の誰かが、何が正しく、正しくないかを決めることになるでしょう。おそらく時や歴史というものが。」(四国新聞掲載の訳より)
 何が「正しい」か「正しくないか」は、おのれの行為(彼の場合は小説を書くこと)の基準たりえないということだ。それは自分の見えること、できることの外部にあり、「他の誰かが」「おそらく時や歴史というもの」が決めるだろうと言っているのだ。その「他の誰か」が決める「正しさ」は結局は相対的なものでしかないだろうということも、この言から伝わってくる。分離「壁」の思想的祖であるジャボディンスキーが「正義」という言葉を使っていたことを思い出そう。では何が「正しく」何が「正しくない」かがおのれで判断できないとすれば、どうするか。どのように小説を書くか。その答えが「常に卵側に立つ」ということなのだ。」
(nos/unspiritualized「Humpty Dumpty sat on a wall」)
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