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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<AI vs. AA

浅田 いま細かく議論している余裕がないので、ものすごく大ざっぱに言ってしまえば、コンピューターの発展に伴ってSF的な考え方が広がり、……プログラミング的プラグマティズムとでもいうべきものが出てきたのではないか。
 ……人間がプログラム総体を上から完全に統御することは可能でも必要でもなく、かつてマーヴィン・ミンスキーが『心の社会』(原著八五年)で言ったように、複数の計算モジュールを並列して走らせておいてもけっこううまくいく、あるいはうまくいくものが遺伝的に選ばれていく、振り返ってみれば、それはプログラミングに限った話ではなく、人間社会そのものが人間の意識や統御の外にある物たちを含んだネットワークの複合体として動いてきたのだ、と。ブルーノ・ラトゥールのアクター・ネットワーク論なども、荒っぽく言えば、そういう流れのなかに位置づけられるでしょう。これは各論としては具体的なプラグマティズムになるのだけれど、……総じて現代における反人間主義ないし非人間主義を形作っているように思います。
 …………
 ……しかし、個々の人間は、幻想にすぎないとしても、主観的な意識を持って行動するわけで、それを理解しようとすれば、やはりカント主義的に考えるしかないんじゃないか。
 われわれの時代には、人工知能といってもやはりトップダウン型のモデルを考えていた。たとえば自動翻訳を考えるにしても、ノーム・チョムスキーの生成文法のようにS(主体=主語)から分岐していく構造を分析的にあきらかにしたうえで、個々の単語を置き換えるといった手順を考えていた。しかし、普遍性をもつ構造を定式化しようとしてもなかなかうまくいかず、他方で計算力や記憶容量が飛躍的に伸びていくと、チェスや将棋と同様、言語であっても、膨大なサンプルを集めてコンピューターに学習させれば、こういうゲームの局面ではこういう手を選べばいい、こういう会話の場面ではこういう言葉を選べばいいということが、かなり的確に判断できるようになる。量が質に転化した──というより、量だけでかなりのところまで割り切れるようになったわけです。プラグマティックにはそれで十分なので、そもそも深層構造などという、あるのかないのかわからないものにこだわる必要はないということになるんですね。たしかに、人間が将棋を指したり話したりしているときも、実際はかなりのところまで脳が過去の棋譜や会話のデータを適当にアレンジして自動的に反応しているだけなのかもしれない。しかし、人間の意識においては、われわれはあくまで主体的に考えてゲームをプレイし、発話しているつもりなので、社会システムの制御だけが目的ならそんなものは無視していいのかもしれないとしても、個々人に関する限り、自然科学的な「説明」で割り切るのではなく内的な「了解(理解 Verstehen)」がどうしても必要でしょう──ディルタイや新カント派の古臭い概念をあえて使って言えば。
 ……そもそも、自然科学的な説明に関してさえ、旧世代の人間としてはどうしても原理から演繹して説明してほしいと思うので、すべてがフラットなデータの集積に還元されるだけでは説明された気にならないんですよ。」
(浅田彰「マルクスから(ゴルバチョフを経て)カントへ──戦後啓蒙の果てに」)
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