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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<The Gentle Art of Making Enemies・2

「〔『虞美人草』〕第二章では舞台が急転し、東京の一軒家のなかの六畳間という密室である。そこでは藤尾が小野さんを相手取っている。それが「男と女」の世界である。「理も知らぬ、非も知らぬ」女には「天下を相手にする事も、国家を向うに廻す事も、一団の群衆を眼前に、事を処する事も」できないと語り手はいう。だがそのかわり、女にはすぐれてできることがひとつだけあり、それは男を相手取ることである。

(女は)只口だけは巧者である。女は只一人を相手にする芸当を心得ている。一人と一人と戦う時、勝つものは必ず女である。男は必ず負ける。具象の籠の中に飼われて、個体の栗を啄んでは嬉しげに羽搏きするものは女である。籠の中の小天地で女と鳴く音を競うものは必ず斃れる。
右の文章にあるように男と女が鼻をつきあわせるせまい世界は戦いの世界である。そして「具象の籠の中」で「個体の栗を啄」むその世界は、卑近な日常生活に住む個人としての男女の葛藤を描く、「近代文学」の世界でもある。そこに住む女は、寵姫、愛妾、女王、お姫様、おいらん、女郎、芸者などではなく、結婚してようがしてまいが、藤尾のようなふつうの女なのである。
 「男と男」の世界は「友情」の世界であり、そこには藤尾のような女がいないことが基本である。事実比叡山は明治の初めまで女人禁制の山であった。山登りの場面が「友情」を理念化した形であらわすのにふさわしいのは(山登りの場面は『虞美人草』の前に書かれた『二百十日』でも有名である)、「友情」においては、男同士の関係自体が、俗を離れてそびえ立つ大義という第三項にかかわることによって成立しているからである。そこでは男と男の関係は基本的に対称的なものであり、男と男の関係そのものは問題にならない。実際甲野さんと宗近君の山登りの途中の会話はしばしば、どっちがどっちの科白を言っているのか区別がつかない(『二百十日』の圭さんと碌さんの会話にいたっては、なおわからない)。……
 それに対して「男と女」の世界は「恋愛」の世界である。「恋愛」の世界では男と女を離れた大義はなく、非対称的でしかありえないものとして男と女の関係そのものが問題になる。関係そのものが問題となるから、そこでは戦いの言葉が氾濫する。しかし重要なのは、「男と女」の世界は戦いの場であっても、男と女が戦えるということ自体、男と女が同じレベルに属し、同質な場を共有しているのが前提となっていることである。
 いうまでもなく男と女は自然に同質の場を共有するに至ったのではない。『虞美人草』が再現するのは、明治の男女がまさに西洋の恋愛文学を通じてそこに相手を見いだすに至ったという「史実」である。……事実漢籍文学(特に漱石の造詣の深い漢詩)とは主に男によって男のために書かれたものであり、西洋における「近代小説」の誕生は女の作家と女の読者との誕生から切っても切りはなせないものであった。同じ文学を通じて同質の場を共有するということは、同じ言語を媒体として同質の精神を持つということである。……
 …………
 漱石のように強烈に「男と女」の世界に抵抗した作家は日本の作家にはほかにいない。そもそも奇妙なのは漱石にとって意味をもっていた日本文学の系譜が漢文学と俳句という男性的なジャンルにとどまり、日本文学のもう一方の系譜、つまり仮名文字文学と和歌という女性的なジャンルがまったく無視されているということである。「眞の日本文學」を模索しようとした漱石は、それを英文学と漢文学という外国文学の拮抗に見いだし、日本文学に内在する二つの系譜の拮抗に見いだそうとはしなかった。世界的観点からこれこそ日本文学だとされている平安女流文学が完全に無視されているのは、まさに抑圧的だとしかいいようがない。『虞美人草』のなかで抑圧される藤尾が紫の女であり、紫式部とゆかりの女であることを思えば、なおさらである。
 しかしこのことから、漱石が女性的な文学の系譜により忠実であったら、より「男と女」の世界に近かっただろうと考えるのは早計である。……たとえば、日本の自然主義文学は結果として漱石よりはるかに女流文学の系譜に近いところで書いている。だがそれは、「男の女」の世界の問題を自然性欲の問題に転化してしまうことによって女を風景の一部に還元してしまい、いくら女のことを書いていても、「男と女」の世界とは似て非なるものを書くに至った。(田山花袋の『蒲団』という作品は、きわめて文学史的な「男と女」の問題──主人公は自分を西洋の小説の主人公と同一化している──を性欲の問題に転化させるその過程自体を描いたことで、まさに自然主義の動きそのものを象徴する作品といえる。)加えて、日本近代文学の作家のなかで、もっとも意識的に平安女流文学の系譜を継承したのは谷崎潤一郎だが、谷崎の女がいかに「男と女」の世界の女とは無縁な女かは述べる必要もない。彼女たちは男と同質の精神をもたない、というより、精神をもたない。」
(水村美苗「「男と男」と「男と女」──藤尾の死」)
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