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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<民主主義の秘訣

「ラカンがフロイトに回帰したように、ジジェクはラカンに回帰するのだが、その際、ジジェクはラカンをもっぱら〈現実的なもの〉le réel の理論家として読もうとする。周知の通り、一九五〇年代半ばまでのラカンは、母子の対を範例とする想像的(鏡像的)imaginaire な関係の矛盾から、「父の名」を原点とする象徴的 symbolique な言語的秩序へ、という論理展開を行っていた。しかし、彼はそこから六〇年頃にかけて大きく転回し、どうしても象徴化しえない何か、象徴界の中心にある言いようのない「穴」であり且つ生々しい「もの」──フロイト的な das Ding、日本語でも「もののあはれ」から「もののけ」にいたる“スペクトル”をもつ「もの」──でもある何か、象徴界のシニフィアンの円環的自動運動を撹乱する偶然の一撃においてのみ垣間見られる不可能な(ありえない)何か、まさにそのようなものとしての〈現実的なもの〉を理論の中心に置くようになったのである。後にラカン自身「フロイトは無意識を発見したが、私は〈現実的なもの〉を発明した」と言っているくらいだから、それがラカン理論の核心であることは疑いをいれない。……
 さて、ジジェクはラカンから得た洞察を政治イデオロギーの分析に生かそうとする。彼がそこで強調するのは、社会がつねに埋めることのできない「敵対性」によって引き裂かれているということ、逆に言えば、そういう〈現実的〉な裂け目をめぐって社会が組織されているのだということだ。この観点から、ジジェクは、たとえば、普通は社会を有機的全体性においてとらえたと見られるヘーゲルの法哲学を逆に読み替えたり、そのような有機的全体性にこだわるさまざまなイデオロギー〔ナショナリズム等〕を批判したりするのである。……むろん、このような理論的実践は、ジジェクがスロヴェニアで展開してきた「民主化」のための政治的実践と深く結びついている。ただし、「民主化」といっても、ジジェクは西欧的な「民主主義」の理想をナイーヴに信じているわけではない。たとえば、とくに面白いのは、彼が民主政における選挙を〈現実的なもの〉の侵入とみなしているところだ。選挙においては、社会の象徴秩序の有機的紐帯がバラバラに切断され、完全にアトミスティックな状況になる。しかも、それはブッシュの風邪やクリントンの浮気の発覚といった愚にもつかぬ偶然や操作によってストキャスティック〔確率論的〕に揺れ動く。しかし、だからこそ民主政は、社会の有機的全体性を正しく表現しうるという幻想から自由な政体、社会には覆いようのない穴があいていることを潜在的に認める政体、最低だが他のどれよりもましな政体でありうるというわけである。珍しいほど選挙の多い今年、冷戦構造から解放された各国の政治がまさにストキャスティックに揺れ動いているのを見るにつけても、ナショナリズムと民主主義の拮抗をジジェクのような観点から分析していくことは、われわれに多くを教えてくれるだろうと思われる。」
(浅田彰「導入にかえて──いまなぜジジェクか」)
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