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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<心理的自己 vs. 主体

柄谷 ……
 主体というのは、心理的自己とは違って、他者と関わるダイアレクティックのなかで出現する。たとえば、内村〔鑑三〕においては、主体 subject は、“I am subject to God”としてのみ可能なのです。彼は没落した武士階級出身ですから、主君に対する忠誠を唯一神に対するそれに置き換えたわけです。しかし、この転倒を簡単に批判できない。なぜなら、どのみち、主体はそのような転倒によって生まれるのだから。そして、内村の場合、この主体は、神に従属するということによる主体ですから、他のいかなるものに対しても独立的である。教会にも国家にも従属しない。だから内村が孤立するのはきまっている。
 他のキリスト教徒も概して旧幕府系の没落した武士階級出身者が多い。しかし、内村のような過激な例は他にない。一般的には、明治のキリスト教というのは、こういう劇的なドラマを経たわけではなくて、漠然として近代的なものだったのですね。だから、まもなくキリスト教なんか要らなくなる。神などなくても、主体でありうるということになる。そこで起こるのが、キリスト教のヒューマニズム化、あるいは社会主義化ですね。大正ぐらいのころはみんなそうだった。内村は、こういう近代的主体に反対だった。社会主義的解決にも反対だった。彼は大正に入ると、再臨信仰などになって、ますます孤立していった。
 内村の批判者が、ヒューマニスティックな、あるいは社会主義的な立場になったのは、簡単に理解できることです。しかし、そのなかに一人ヘンなやつがいた。おそらく、キリスト教がなんたるかをほとんど理解していなかったけれども、それが人を病気にするものだということだけを直観していた男がいた。それが志賀直哉だと思うんです。たとえば、志賀のテクストにおいては、「気」が主語なんです。気分が主体である。私はこう「思う」と書いてあっても、英語でいえば、“I think”ではなく“I feel”なんです。というよりも、もっと正確にいえば、“It thinks in me”“It feels in me”とでもいうべきものです。この非人称主体 it とは、ドイツ語でいえば、エスです。フロイトが無意識と呼んだし、ハイデッガーが存在者の「存在」と呼んだ、あのエスです。
 この場合、志賀を内村との対立と関係づけてみると、彼の転倒がよくわかるはずです。つまり、志賀は、主体性を、“I am subject to It”としてつかんだと言えるのです。志賀においては、そういう意味でのみ、主体がある。普通の意味では主体はないに等しいわけです。「不愉快だからこうだ」とか「こういう気がするからこうする」というのは、ふつうの人にとっては、気まぐれで恣意的な判断に見えるけれども、彼にとっては絶対的なのです。何しろ、“It”に従属することによってのみ主体なんだから。
 こうして見ると、内村と対極的な形で「私」が出てきている。これに対しては、芥川龍之介も小林秀雄もかなわない。その意味で、志賀が代表するかぎりにおいては、私小説は、内村的なものとの対決と、その裏返しという形で出てきた。……
 しかし、一般的には私小説はそういうものではない。最初に言ったように、内村も志賀も武士的なんですね。それは、ほかの圧倒的に多数の階級とは違う。むしろ、一般的には、こういう従属-主体の構造が乏しい。そして、近代日本の「主体」は、こういうエディプス的なものではなく、はっきりしない主体の方が支配的になったのではないか。……
 …………
 蓮實さんが昔論じていたけど、志賀直哉は戦後になって、日本人は日本語をやめてフランス語でやれとか言っているでしょう。これはふつうの作家が言えることではないね。エスが言わせているんだろう(笑)。
 …………
浅田 父権的なものではないけれど、母性的なものでもない。川端康成を「孤児」というのとは全然違った意味での「孤児」ですよ。「孤児」だから「父」にはなれないけれども、しかし母性的な構造には回収し得ない過剰なものを持っている。まあ、半分はたんにわがままだというだけですけどね(笑)。
蓮實 わがままなんだけど、趣味のわがままじゃないんですね。大正は趣味のわがままでしょう、「個人」といったって皆。だから趣味を超えたわがままというのは、ちょっとすごいね。」
(浅田彰×柄谷行人×野口武彦×蓮實重彦×三浦雅士「「近代日本の批評」再考」)
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