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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<心理的自己 vs. 主体 2

浅田 ある種の極左ロマン主義みたいなものが、昭和初年代にマルクス主義に没入した人たちにあるとすれば、その原型みたいなものは、明治二十年前後の透谷とか藤村にもあると思う。だから彼らは信用できないんです。あの当時のキリスト教徒で唯一信用できるのは内村鑑三だけだという気がする。というのは、彼の場合、青年期のロマン的情熱からキリスト教を選んだというよりは、たまたまクラークのいる学校にいたから入信して、しかも入信して不都合しかなかったなんて言っているし、「不敬事件」だって、前々から思いをめぐらして勅語に敬礼しなかったというよりは、パッと前に出た時に、オタオタとしてちょっとおじぎだけして……。
柄谷 慎重に覚悟してではなく、ふっとやってしまったという感じですね。
浅田 そうそう、大したことになるとは思わなかったという、そういうのがおそらく本来的なキリスト者のあり方につながるような気がするんですけど。それ以外の連中のキリスト教は主観的なロマン主義でしょう。
 …………
 もし当時のキリスト教が昭和初期のマルクス主義みたいな位置を担ったとすれば、透谷の自殺は小林多喜二の死のような効果をもったかもしれない。その点、内村鑑三は福本和夫のようなところもあるし、中野重治のようなところもある。なんでキリスト教なりマルクス主義なりを選ぶのかわからないんだけれども、その偶然性は、事後的に絶対的な必然性へと転化する。
三浦 まるでキルケゴールのことを言っているような感じがするね。
浅田 それはキリスト者として本物という感じがする。透谷や藤村の内面のドラマというのは……。
三浦 それはロマン主義ですよ。」
(浅田彰×柄谷行人×野口武彦×蓮實重彦×三浦雅士「明治批評の諸問題 1868-1910」)
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