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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<心理的自己 vs. 主体 3

蓮實 フェミニティの問題に戻るんだけど、最初のフェミニスト作家は漱石でしょう。これは柄谷さんも触れておられたけれども、漱石のなかに出てくる女性像──まあ『女学雑誌』を読んだような人たちでしょう──そうした魅力的な女性像が大正期の文壇では消えてしまう。漱石一人かもしれない、あのような女性を書きえたのは。あんな女性の社会を書いた人はいないよ。そこから谷崎まで飛ぶわけです。
柄谷 漱石の『こゝろ』でも、先生の下宿していた家は、いわば母系家族ですよ。お嬢さんと母親しかいないところへ、二人の男を入れて、品定めしたり競り合わせたりしている(笑)。そういう世界です。あそこに奇妙に父親はいない。
三浦 漱石の女性性ってどういこと?
蓮實 まず、漱石には、他者はいるんだけれども、その他者を絶対的真理という家父長的な形で作品に導入してきてない。だからその意味では、明治から大正にかけてイズムと呼ばれうる内村にも福本にも両方にかかってない。漱石のあとに出てくる志賀直哉はもう内村に引っかかっちゃったから、絶対フェミニズムに行けない。
浅田 「孤児」になるしかない。
蓮實 そう。漱石だってフェミニストじゃないけれども、およそ父権的な世界とは遠い領域で男を巧みに操作する女性を描いている。量からしても、あれだけの女のセリフを書いた人はいない。と同時に、あれだけ女性を登場させて見事に振舞わせた作家もいない。それを殺したのが大正文学なんです。そうすると、少なくとも表象化された女性であっても、表象化された女性を殺戮した以後にはじめて小林秀雄が出てくる。小林は漱石はほとんどだめでしょう。
三浦 川端的な女性像というのは、漱石的なものはおよそない。
浅田 だってあれは男性のつくる女性のイマージュだから。極端に言うと口をきいてもらっては困るんです。
三浦 「眠れる美女」になる。
浅田 漱石でも、『こゝろ』はまだかなり男性優位なんじゃないか。少なくとも表層的レベルでは女性は男性間のジラール的モデル/ライヴァル関係のターゲットとしてあるにすぎないわけだから。だけど、そのあとはまた大きくふれてきて、『明暗』はずっと女性優位になっている。だから水村美苗が『続・明暗』を書く必然性があるわけね。
柄谷 『こゝろ』は、男たちが母系の女たちに騙されたという小説だと思う(笑)。実は、二葉亭四迷の『浮雲』もそうなんですよ。
 …………
三浦 柄谷さんのお話、説得力あると思うのは、その前の作品群にしても明らかにフェミニンな要素が強いし、登場してくる女性がとにかく勝手に動くでしょう。勝手に動くものとしての女性像だね。それはかなり説得力あるな。
 …………
柄谷 たとえば、漱石は、『三四郎』で美彌子について、アンコンシアス・ヒポクリシーということを言っているでしょう。その意味では、『こゝろ』に出てくるお嬢さんとか母親は、まさに無意識のヒポクリットですよ。
三浦 まさに『三四郎』の美彌子の観点で『こゝろ』を読みなさい、と。
柄谷 そうよ(笑)。」
(浅田彰×柄谷行人×野口武彦×蓮實重彦×三浦雅士「「近代日本の批評」再考」)
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