忍者ブログ

Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<小説の倫理、想起の倫理2

「現実に、小林〔秀雄〕自身が〔ドストエフスキー・〕ノートにおいて自らの位相を「見ること」と呼んでいる。だが、誰もが意識の上ではリアルに事象を見ている以上、困難は「見ること」の小林に固有の用法を厳密に確定することにある。彼が次のように書く時、その苛立たしさは正確にヴィトゲンシュタイン(「すでに述べたように、考えるな、見よ!」、『哲学探究』、六六節)的な性質のものだ。「読者は、凶行の明らかな動機も目的も明かされてはいない。そんなものが一体必要か。そんな事はどうでもいい事ではないか。よくなくっても後の祭りだ。殺されて了ったのではないか。現に私はこの眼で見た。そうだ、見る事が必要なのである。だが、評家は考えてしまう。(略)併し、評家は見ない、考える、ラスコオリニコフの思想とは、性格とは、と。これは危険な道である」。
 「見ること」は「考えること」=「動機」や「目的」を事後的に偽造しその順序の倒錯に眼を閉ざすことではない。見ることが考えることでしかないなら、小林はその意味では何も見ていない。小林が「見る」のは、逆にこの等値が抹消する不在の何か、すなわち内省と行為の間に広がる深淵である。だがさらに重要なのは、小林が一歩を進めてこの「見ること」をフロイト的な倫理性に直結させていることだ。私の考えでは、この態度には「批評にとって他者とは何か」という問いへの、いや、我々がある種の他者に真に倫理的にふるまう時いかなる行為を余儀なくされるのか、という根本的な問いへの答えが隠されている。日本の批評において、それは小林秀雄と江藤淳における他者についての思考の差異として最も尖鋭に示される。たとえば、江藤は『門』の主人公についてこう断定する、「宗助は、(略)一切の人間的責任を回避しようとした卑劣の徒にすぎない」(『夏目漱石』)。もし批評に他者を導入することがこのタイプの倫理主義的裁断を意味するなら、我々はラスコーリニコフの行為もまた自己絶対化だというほかない。事実ポルフィーリーが彼に「空気(生活)が足りない」と言い、また『白痴』のエヴゲーニーがムイシュキンの自己への「耽溺」を批判するとき、これら全てで彼らは「考えた」のではなく他者の喪失を「見た」つもりでいるのだ(……)。
 我々は、何が善で何が悪かを決めなければならない圧倒的な地点が我々の生存にあることを絶対に否定しない。その過程で、何かを見たつもりで実は何かに見られているにすぎない滑稽さを我々自身が繰り返し演じる他ないに違いない。だが、『夏目漱石』における上述の断定で、江藤ははたしてそうした地点にいたのだろうか。『成熟と喪失』を経て『昭和の文人』に至る彼の批評は、判断の過度の明晰さと引き換えに、できあいの図式をどの事柄にも無差別に適用する精神に固有の底意地の悪さだけを我々に示した。この帰結が生じたのは、彼の否定がいつも「『他者』という概念」(江藤淳「文学と私」)による裁断にとどまっていて、倫理への転回を妨げる個体の荒廃にじかに向き合う「倫理性」を遂に欠いていたからである。それに対して小林は「見ること」の側から答える、「ムイシュキンの裡には、彼と生活上の深い交渉に這入らぬ人々の観察や批評を、たとえエヴゲエニイの場合のような同情ある正しい観察や批評さえ、空しい雄弁に化して了う何ものかがある」(「『白痴』についてII」)のだ、と。
 小林の異和は、ポルフィーリーやエヴゲーニーが何かを理解したかもしれないが何も試みなかった事実から生れる。一般に、他者を導入したと称する批評は、それが「正しい観察や批評」に終始する限り、狭隘で性急な言説そのもので自らの主張を自己矛盾的に裏切っている。他者性の定義と水準の不断の検証を欠くために、自己絶対化(他者喪失)の批判それ自体が粗暴な自己絶対化に陥るほかない。君には他者が見えていない、その種の「真実」を無際限に繰り返す者こそ眼前の他者を残酷に否認しているのだ。必要なのは、「概念」ではなく現実に他者に至る道なのに。それは、フロイトのいう「乱暴な分析」、分析関係の具体的な現実を無視し、瞬間的な診断に基づいて直ちに解釈を投与する性急な分析を想起させる。その結果、彼らは小林が「見る」次の光景に必然的に目を閉ざしてしまう。「今、彼の裡に現れたものは、観念でも意識でもない、それは嘗て経験した事のない悩ましい触覚であった。恐らく、作者は、読者の思想の裡にも、同じ触覚が現れる事を期待しているのである」。
 なぜ「観念」や「意識」でなく「触覚」であることを強調しなければならないか。それは、主意的な努力であるかにみえる主人公の孤独が、本当は「怪物のほうが彼を解決したということ」、すなわち内省に対して不透過な受動性である事実を「見る」ためだ。」
(鎌田哲哉「「ドストエフスキー・ノート」の諸問題」)
PR

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。

プロフィール

HN:
trounoir
性別:
非公開

P R