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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<心理的自己 vs. 主体 4(インタープレイ4)

「要するに、ラスコーリニコフはこの時初めてリザヴェータについての記憶を想起できたのだ。だが、それは彼の単独の力によってではなく、「意識の自律を乱す、或る外的必然の闖入を感ずる」こと、すなわちソーニャへの抵抗関係へ引きずり出される過程を通して初めて可能になる。そして小林の記述が、一方ではフロイト的でありながら他方でフロイトへの内在的な批判としてある理由もここにある。
 まず前者から述べる。精神分析における治療とは、大まかにいえば、症状を形成する抑圧された記憶を被分析者が分析者の助力を通して想起することである。だが、分析の過程で被分析者は常に分析者に感情転移し、過去における他者との葛藤を(精神的に想起する代りに)分析者への運動的な行為として繰り返してしまう。だがフロイトは、転移の形式をとるこの抵抗こそが抑圧のありかを暴露する可能性の条件だと考える。この点では治療は転移と反復強迫に直面し続ける過程以外の何ものでもない。「分析医は、患者が運動的な領域に向けようとする衝動を、精神的な領域の方に引きとどめるために、患者と不断の闘争態勢を取り、かくして患者が行動として発現させようとしているものを、記憶を想起するという操作によって解決することに成功すれば、われわれはそれを治療の勝利として祝うわけである。(略)患者の反復運動を制御し、これを記憶想起を起す手がかりと成す中心的な方法は、感情転移の操作である。われわれは反復強迫の権利を承認し、それをある特定の領域内で、自由に発現させておくことによって、それを無害なものに、いや、むしろ有用なものにするのである」(フロイト「想起、反復、徹底操作」)。
 ここから見れば、小林の記述する「場面は、一種の犯行に始」るとは、いわば患者が分析医に感情転移することによって原光景へ逆行する事態に、「一種の自白に終る」とは、前者がこの転移関係を通して初めてその原光景を想起する事態に、それぞれ対応している。もちろんソーニャはラスコーリニコフとの「闘争態勢」にあるわけではないが、他方でフロイトの「闘争」の目標が本来は無意識から無意識への伝達にあることを我々は忘れるべきではない。「各人は自己自身の無意識のうちに、それを用いて他者の無意識のあらわれを解釈することができる道具を所有している」(フロイト「強迫神経症の素因」)。この意味で、ラスコーリニコフの無意識の根底的な批判を可能にするのは、ソーニャの無意識であってポルフィーリーの意識ではない。「パラドックスの種はソオニャが播いた」のだ。主人公にとって、想起(過去の構成)は彼自身の内省(自己反省)とは全く別の領域にあり、それは眼前の他者との現実的な関係を不可欠の条件とする。この成立を欠けば、真に倫理的と呼ぶに値する彼の以下の(告白直後の)認識は決して生じえなかった。

 ラスコオリニコフはソオニャの沈黙の力の様な愛を通説に感ずるのだが、これに答える術を知らぬ。ここで彼の孤独も亦新しい暗礁に乗り上げるのである。何故俺は一人ぼっちではないのか。何故ソオニャも母親も妹も、俺の様な愛しても仕方のない奴を愛するのか。何んという俺は不幸な男だろう。「ああ、もし俺が一人ぼっちで、誰ひとり愛してくれるものもなく、俺も決して人を愛さなかったとしたら、こんな事は一切起らなかったかも知れぬ」と彼は考える──これは深い洞察である。この時この主人公は、作者の思想の核心をチラリと見る。
 なぜこれが「深い洞察」であり、しかも「作者の思想の核心」だといえるのか。それは、「自分は完全に閉じた孤独にあり、それゆえに現実への転回を目指す」(自意識の球体から外部へ)という発想自体の盲点にラスコーリニコフが気付きかけているからだ。現実の主人公が、すでに犯行以前の段階で母/妹/ソーニャ/マルメラードフとの討論を欠いては自己の思考を展開できなかったこと、それは母の手紙への彼の反応を一読すれば明らかである。「絶望して自己自身であろうとする」絶望に彼が突き進んだこと自体が、「全関係が他者に依存していること」を逆説的に告げている。だが彼はいま、所与としての他者の先行性からようやく思考を始めようとする。」
(鎌田哲哉「「ドストエフスキー・ノート」の諸問題」)
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