Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編
汝自己のために何の偶像をも彫むべからず
心の内を直截に写す。それが単に智的に記述されて了えば、それは説明になるだろうが、情的の潤があり響があれば、やはり一種の描写であろう。成程目付顔色などの具体的描写をして、それで心内の波瀾や葛藤を見せることも必要だが、そればかりでは十分深い所まで這入り得ない。(中略)つまり具体的描写も必要であるが、又直截な心的描写も当然為さるべきものだ。(「文談五則」)二葉亭は明らかに「描写」を「具体的描写」だけでなく「心理」にも及ぶべきだと考えている。だが、さらに重要なのは、二葉亭にとって「心理」とは「意識以下の事情」にほかならないことだ。たとえば彼は森田草平の「煤煙事件」(漱石の弟子であった草平が日本最初期の女性運動家・平塚らいてうと起こした心中未遂事件)に触れて書く。
私はこう思う。何も写生といって、狭い範囲に自ら限って、人物をも自然の景色の一点景としてのみ見ずに、寧ろ、心の景色、即ち心理状態を写生的に描き出すのも、まだ写生文の一体として面白かろうと。(「写生文についての工夫」)
それは二人に聴いて見れば、いろいろの事を言うであろう。けれども其れを聴いたって分るものではない。否、これは本人同士にも分らないであろう。即ち、当人たちも意識していない、意識以下の種々な心理的事情が紛糾って、それに動かされているのである。 この意識以下の複雑な心理事情! それが分らない内はこの事件の真相は分らない。だから最っと材料を豊かに得て、其処を洞察し、看破して、それを明瞭にして見せたならば、成程! と初めて当人同士にも分る、と言ったような物であろうと思う。(「暗中模索の片影」)ここで言われている心理が「内面」ではないことに注意しよう。むしろそのような「内面」の吐露が隠してしまう「意識以下の種々な心理」を引き出すことを、二葉亭は心理描写と呼んでいる。それは「本人同士にも分らない」ものであり、ゆえに第三者による分析的介入が必要になる。」
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