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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<小説の倫理、想起の倫理3

「二葉亭の言う「勧懲小説」とは、現在で言えば、大多数のエンターテイメントにあたる。それがたとえ「勧善」ではなく「勧悪」だったとしても、何らかの「当推量」の下に書かれるすべての試みを二葉亭は一蹴した。読者を消費的に満足させる(それは往々にして突飛な状況や主題を要求することになる)のが小説の目的ではない。逆に、一見どんなに些細でありふれたことのように見えても、その「心理」を解剖し尽くそうとする試みは必ず「爆裂弾と一歩の相違があるばかり」の領域に踏み込んでいくことになる。これが二葉亭の直観だったと思われる。
 …………
 二葉亭〔四迷〕の大前提がエンターテイメントへの批判にあったのはすでに見た。その「当推量を定規として世の現象を説」こうとする試みの批判は描写という技術によって可能になると彼は考えていた。絓〔秀実〕それを文という意識の軸におく。坪内逍遥の戯作調も森鴎外の文語調も、口語と文語という見かけ上の違いを取り払えば、それは主人公である「私」の語りをなめらかにするものにすぎない。それはやがて「私」を語るために邪魔なものは排除し、描くべき対象はほどよく調節する技術に結実する。だが、二葉亭の描写に対する意識はそのようななめらかな「私語り」を許さない。絓はそれを二葉亭の情景描写を分析することで明らかにした。しかし、ここで重要なのは、二葉亭が描写を視覚的なものだけではなく心理にまで及ぶべきだと考えていることである。この限りで絓の議論は踏み込みが足らない。あと一歩のところで急所を逃している。

 心の内を直截に写す。それが単に智的に記述されて了えば、それは説明になるだろうが、情的の潤があり響があれば、やはり一種の描写であろう。成程目付顔色などの具体的描写をして、それで心内の波瀾や葛藤を見せることも必要だが、そればかりでは十分深い所まで這入り得ない。(中略)つまり具体的描写も必要であるが、又直截な心的描写も当然為さるべきものだ。(「文談五則」)
 私はこう思う。何も写生といって、狭い範囲に自ら限って、人物をも自然の景色の一点景としてのみ見ずに、寧ろ、心の景色、即ち心理状態を写生的に描き出すのも、まだ写生文の一体として面白かろうと。(「写生文についての工夫」)
 二葉亭は明らかに「描写」を「具体的描写」だけでなく「心理」にも及ぶべきだと考えている。だが、さらに重要なのは、二葉亭にとって「心理」とは「意識以下の事情」にほかならないことだ。たとえば彼は森田草平の「煤煙事件」(漱石の弟子であった草平が日本最初期の女性運動家・平塚らいてうと起こした心中未遂事件)に触れて書く。

 それは二人に聴いて見れば、いろいろの事を言うであろう。けれども其れを聴いたって分るものではない。否、これは本人同士にも分らないであろう。即ち、当人たちも意識していない、意識以下の種々な心理的事情が紛糾って、それに動かされているのである。 この意識以下の複雑な心理事情! それが分らない内はこの事件の真相は分らない。だから最っと材料を豊かに得て、其処を洞察し、看破して、それを明瞭にして見せたならば、成程! と初めて当人同士にも分る、と言ったような物であろうと思う。(「暗中模索の片影」)
 ここで言われている心理が「内面」ではないことに注意しよう。むしろそのような「内面」の吐露が隠してしまう「意識以下の種々な心理」を引き出すことを、二葉亭は心理描写と呼んでいる。それは「本人同士にも分らない」ものであり、ゆえに第三者による分析的介入が必要になる。」
(大澤信亮「組合文学論」)
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