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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<Re: 小説の倫理、想起の倫理3

「最後に注意すべきことがある。神経制御に関する仮説は、脳を中央集権的で、メッセージ受け渡し装置とする描写からはほど遠いということだ。というのは、何らかの内部制御システムが、多様なサブシステムにコード化された、すべての情報に対するアクセス権をもつというイメージと、サブシステムを結合しているチャンネルを開け閉めできるというイメージとのあいだには、重大な隔たりがあるからだ。ここに概説した神経制御に関する仮説が要求するのは、後者の、チャンネルを制御する能力だけである。したがってこの仮説は、従来の「中央管理」システムの見解とはかけ離れているのである。ダマシオ夫妻が仮定している「高次の中心」は、より低レベルのエージェンシーから「ファイル転送された」知識を貯蔵する役割をもっていない。そうではなく、そこは「単にもっとも遠く離れた収束ポイントであり、逆行性活性化が発散していくきっかけになる」。情報処理的なアプローチに対するほとんどの反論は、より正確には大量の「メッセージ受け渡し」として心をとらえる見解への反論であると、私は考えている。一例として、マースが述べるには、適応的な自律エージェントの研究では、「インターフェースの手段として「中心的表象」をあてにする」古典的モジュールを使用しない。その代わり、自律エージェント研究者は、非常に単純なメッセージをやりとりするモジュールを提案する。そのメッセージの内容は、活性化、抑制、阻害のためのシグナル以上ではない。そうすれば、モジュールは表象の形式とかをいっさい共有する必要がなくなる──それぞれが情報を非常に独自の形式で、タスクに特化した方法でコード化して構わない。この分権的制御と複数の表象の形式という見方は、生物学的にも現実的であり、計算論的にも魅力的である。しかしこの見方をとることは、もうおわかりのように、ある程度内部をモジュールに要素分解し、情報処理スタイルの説明を(部分的に)用いることと完全に両立するのである。
 …………
 現代の神経科学は、この手短でおおまかな少数の例からもわかるとおり、ラディカルな部分と伝統的な部分とが興味深く混じりあっている。神経での計算を、構成要素的に情報処理に基づいて分析するという、従来から重視された部分はほぼそのまま残っている。しかし、その意味はより幅広いものになっている。それはますます分権的になり、複雑な再帰的ダイナミクスの役割にも注目したシステム的理解という意味においてなのである。内的表象(内部での表現)の考え方も依然として重要な役割を果たしている。しかしその表象のイメージには、いくらか根本的な変更がなされつつある──その……理由は、物事がどのように内的に表象されるのかという問いが、その姿形を変えてしまったからである。それを変えたのは、分散的表現についてのコネクショニストの研究と、個々の神経細胞は複数の刺激の次元に沿ってチューニングされた、フィルターとして見るのがよいという認識である。ここに挙げた、分権化、再帰性、生態学的な影響、分散した多次元表象といったものの組み合わせが、表象をもつ脳のイメージになっており、これは単一的でシンボリックな内部コード(あるいは「思考の言語」)という脳の古い考えからは、はるかにかけ離れている。このイメージは表象主義であり計算主義であるが、余計な荷物をすべて取り除いて効率化されている。それによって、いままでの章で強調してきた、有機生命体と環境からなる大きなダイナミクスを調べることと、相補的なものになっているのである。」
(アンディ・クラーク『現れる存在──脳と身体と世界の再統合』)
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