Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編
汝自己のために何の偶像をも彫むべからず
アーシュラであれハーマイオニであれ、或いは他の誰であろうと、彼らがたとえこの世に存在しなくても一向に構わないと思えるときがあった。何故あれこれと思い煩うのか? 筋道の立った、充ち足りた生活を得ようとして足掻くのか? 何故悪漢小説のように、事の赴くままに流されてゆかないのか。人と人の関係について何故思い煩うのか。一種自堕落なバーキンの思いは、人間と人の世を捨てたいという既に見た作者の願望の反照であるが、幾分軽く投げやりに誌されている点が、逆に『恋する女』執筆時期の作者の本心からの隔たりを示している。引用文の直後に、「しかしバーキンは、未だ真摯な人生を求めるように運命づけられていた。呪われていた」という文章が現れるのはそのためである。つまり作者の心には、「愛」を厭い人間を厭い、虚ろな世界を漂うとする動きと、人に結ばれて定まりたいと願う欲求が二重に生じていたということである。しかし「愛」を捨てきれない心が作者にあったとはいえ、求めようとして「愛」が得られるものではないことも、この作家にとっては自明すぎるほど自明な前提であった。例えば「月明り」の章末尾のアーシュラが、「得も言われぬ親密さ」を欲し、バーキンを「完璧に、自分のものとして持ち」、「生命の水を喫するように」彼を「飲み下そう」と勇み立つ場面などは、滑稽と畏れを読者に同時に感じさせる場面である。アーシュラは、時に増長の極限にまで心を昂らせる女性であり、「愛」を求める同じ意思が「愛」を遠ざけるという肝腎の真理に目醒めることがないのであるが、そういうアーシュラの姿に接する読者は、予め彼女の心の重大な欠陥に気づかされているのである。それ故に作者に残された道は、「愛」を求める心のないところに「愛」の成立する可能性を見る、およそ不可能な道が考えられるのみであったと言うことができる。……
バーキンの顔に、それまでよりも明瞭な表情が現れた。確かにアーシュラの言葉は、おおむね正しかった。彼は自分自身が偏狭であり、一方でこの上なく宗教的であるにもかかわらず、他方で奇妙に堕落しているのが分った。しかしそういう彼女自身は少しでも優れているのだろうか。他の誰であれ、彼よりも優れているか?バーキンは自分自身を省みる同じ心をアーシュラに向けざるをえない。彼にはそして、アーシュラを愛しているがために自らの欠点よりも一層鮮明に彼女の短所が見えるのである。これは読者にも馴染み深い愛する者の相克である。「愛」の意識を抱くがために、さもなければ見えない愛する者の醜さが見える。そういう「愛」の不毛な明晰さを越えようとして、「愛か憎か、或いはその双方である不可思議にして危うい親密さ」から作者は出発するのである。作者は、一組の男女の思うところをあからさまに誌し、非のうちどころないと各々が思う「愛」が、互いの「愛」に触れて崩れるさまを描かねばならない。というのも、この二人だけによっては「愛」は生じえないことを、読者の予感としても、或いは作者自身の自覚としても、予め確かめておくことがこの章にとっては必須の要件だからである。
融合、融合、二人の人間の間のこの忌々しい融合というやつ。全ての女性が、殆どの男が言い張るこの融合とかいうやつも、怖ろしく胸くそ悪いものではないか。精神のであれ、情熱に火照る肉体の融合であれ、忌わしいものではないか。アーシュラは、バーキンの手渡した指輪を投げ捨て、「漫然とした」足どりで遠去って行く。取り残されたバーキンが彼女の後ろ姿を見ながら右のように独白するとき、作者は「意識」に濁った「愛」の不純さを吐きすてていると言ってよい。つまり「愛」を一つの理想とし、その「愛」によって他者に結ばれねばならないという貪りを唾棄している。しかし「融合」はとりもなおさず「愛」のことであるから、「融合」を「忌わしい」と言うバーキンと作者が喪ったものもやはり「愛」に他ならなかった。「アーシュラの姿は小さくなった。彼女はバーキンの視野から消えたようであった。一つの暗黒が彼の心に降りた。ただ小さな意識の斑点だけが、彼のまわりを飛び交っていた」と書かれた文章は、「愛」の成就する可能性が消失したことを自覚したバーキンの心が一つの暗黒の空ろと化して、意識だけが心の外で飛び交う虚脱状態に陥ったことを示している。アーシュラとの「愛」の期待が消え去ったとき、バーキンの生涯の理想にも死に等しいものが訪れたということであるが、人の意識が善しとしたものが滅びてはじめて、「愛」を妨げるものもまた滅びるのである。ロレンスが「愛」を喚起するためにはさしあたりこれだけの過程が必要であった。つまり作者の心から、「愛」を望む心と「愛」を厭う心の双方を浄化することが必要であった。そういう無垢の魂の、願うもののない虚の空白にこそ、「愛」の訪れについての深い信念は芽生えるからである。
バーキンの心には暗黒がかぶさっていた。妄執のように続いた怖ろしい意識の瘤はいま壊れ去り、バーキンの生は、その四肢と身体にかぶさる闇のなかに溶けた。しかしいま彼の心臓には一点の不安があった。アーシュラに戻ってきて欲しかった。軽く、規則正しく、無垢に息を吸う負目ない幼児のように、バーキンは呼吸した。アーシュラは、戻ってくる道で一体何を考えたか。彼女の心理の変化は一切語られないから、これを指して読者が、作者は肝腎の場面で問題を回避したと言うのは易しいことである。しかし顧みて、この小説の十三章でアーシュラが一人でバーキンの住居を訪れるとき、既に二人が肉体の交りを結ぶ条件は整っていたのである。にもかかわらず恋するこの二人の男女は究極的に結ばれることがなかった。その原因がどこにあるかについて、「遠出」冒頭の数頁で示唆された以上、「愛」を成立させない当のものに頼ってアーシュラの翻意を明かすことは不可能なことである。何が不可能な「愛」に再び生命を吹きこんだかは、バーキンの「意識」そのものが彼から分離した事態と、アーシュラが摘んできたエリカの花と、さらには「繊細な、敏感すぎるほどやさしい」彼女の手によって語らせる外はないのである。
アーシュラは戻ってきていた。高い生垣の下を、ゆっくりと、彼の方に向かうアーシュラが、ゆらゆらと漂ってくるのが見えた。しかしバーキンは動かず、再び見ようとはしなかった。彼はまるで安らかに睡んでいるように、完全に弛緩していた。
アーシュラは彼の前に佇み、うなだれて言った。
「あなたのために摘んできたの。何の花だと思う?」
赤紫のエリカの一房を、彼女は気づかわしげにさし出した。バーキンは、色づいたエリカの束と一本の木のような小枝、この上なく繊細な、敏感すぎるほどやさしいアーシュラの手を見た。
ただいまコメントを受けつけておりません。