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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<最後の恋愛小説2

「『チャタレー夫人の恋人』は痛ましい小説である。その理由の一つは、現代の醜状を誌す作者が、この作者の他の作品には似ず用意周到で、およそ容赦というものを感じさせないからである。ロレンスは、心中の憤怨と嫌悪をひたすら内向させ、そのものとしては小説にあからさまに表さぬままに時代の病状を具さに点検する。文学者として醜いクリフォードに、実業に志す人間としても一層惨絶な姿を晒す役割を負わせるのは、そういう意図の現れである。コンスタンスが新しい世界の息吹きを身近に感じ始めるとき、逆にクリフォードは正反対の道を完うする。ボルトン夫人から炭坑の生活を聞かされる内に、彼は自ら所有する炭坑を興隆させて己れの存在を顕示したいという実業家の願望を抱く。言葉の空虚が、物理的な実体に裏打ちされた空虚に変る。しかもクリフォードは、無知無能の痴呆者のごとくボルトン夫人に依存しコンスタンスにすがる。彼は今や、「硬質で器用に動く外殻と、どろっとした内部を持つ生物、機械という鋼鉄の殻と柔らかい内部組織を持つ脊椎のない甲殻類、現代の工業と財政社会の驚くべき蝦、蟹の類」に変身するのであり、看護婦のボルトン夫人に対しては、「あたかも半ば愛人、半ば乳母に対するがことく、無情熱という一種の情熱を傾けて自己をひけらかす」のである。コンスタンスは嫌厭の念に加えて恐怖心さえ抱くに至る。夫に関わることによって現代という時代の狂気に引き込まれる予感に慄然とする。そうして或る日、「本当にもう自分は死んでいるのではないか」「邪悪な虚偽と白痴の驚くべき残酷さに圧しひしがれ死にかかっているのだ」と感じる怖ろしさの極みに、彼女が森に蹲って泉の湧き水を見つめながら物思うているときに猟番が近づいて来る、というふうに話が転じると、読者にはもうそれだけでメラーズを受け容れる準備が整っているのである。
 しかしながらロレンスは、既にコンスタンスの思いを藉り、「現代社会は狂っている。金銭と、いわゆる『愛』が最も救い難い狂者だ」と明言していた。作者がメラーズに、むしろコンスタンスを忌避させるのも、読者を焦らせて最終的に二人が結ばれる際の効果を高める術策ではない。それは、作者の心の常態の自然な反映と言うべきものである。メラーズの方言でさえ、猟番の意図においては、チャタレー卿夫人との間に故意に設けた障壁であった。コンスタンスの気紛れから孤独な生活を乱されてはかなわぬと思うメラーズは、夫人の反感を買わない程度に慇懃に接し、彼女もまた猟番の挙措に自己を忌避する趣を察知する。ただ彼女には、森が唯一の慰藉であり、「少なくともメラーズは正気で健やか」であるから、足しげく雉の孵化場に通う。……
 …………
 いかにもメラーズの「森」は、「生命」を新たにする場所の謂である。あたかも大災害を逃れた男女が、最も卑俗なものにすがって、「人間」を更新し未来を生み出そうとする場所である。その課題が首尾よく二人に果たせるか否かについては、作者は一切を不問に附する。他の登場人物に対してこの上なく辛辣であった作者は、この二人に対しては限りない愛情を注ぐ。つまり冷静な心で問えば、二人に人間の未来を生み出す課題が担えるか否かは、最初から答えの解りきった問である。しかし人がかりに機械の一部分ではなく、時代の指定した台詞を復唱する気のきいた精神の儡ではないとすれば、「現代」の壊滅した後に再生すべき人間の条件は、作者にとっては疑いようもなく決定していたのである。それは、最も単純で平易な、人が生きている限り片時も離れることのない「生命」に触れた人間でなければならなかった。男が男であり、女が女である紛う余地ない事実の前に、謙虚に身を委ねる醇朴な心を持った人間でなければならなかった。それ故に、二人が交りを結ぶためにはおよそいかなる動機も名分も必要ではないのである。彼らは現代文明の齎す醜さを怖れ、ようやく見出した安息の「森」に逃げ込んだ人間の末裔のごときものであるから、肉体が完うに感触に応じ、健やかに他の迎える本能が死滅していなければ、それ以外のものはむしろ不必要なのである。人の枝葉と末節が腐乱して異臭を放つ時代であれば、本源のものを在るべき場所に保って末梢を断つ叡智だけがこの時代には尊い、と作者は言いた気である。しかしロレンスは、(何度も繰返すようだが)、コニーが自らの力でその叡智を得たというふうにはこの小説を書いていない。ただ一挙に、現代の奈落に彼女を突き落して、執拗に、或る意味でサディスティックなまでにこの女性を苛んだ揚句、一つだけ逃げ道を開いてやるのである。その仕儀が小説家として残酷であると言う者には、『三色菫』や『いらくさ』の詩に窺えるように、私たちの時代は人間に何をしたかと反問する頑迷な心を彼は始終抱いている。作者が望む読者は、醜いものに憐憫を示す読者ではなく、一層これを憎む読者である。クリフォードを憐むよりは彼を憎悪して已まぬ感情が、今の時代には唯一健やかで尊いことを教えて、その惨しい心に一層優しい人間の結びつきが生じ得ることを示そうとした。それ故『チャタレー夫人の恋人』の中で作者の筆が最も温みを帯び、作者の心の感触を伝えながらコンスタンスの見知った世界に読者を導き入れる十二章終り近くの数頁は、その夢幻にも似た愉悦の実感によって作者がそれまでの苦しみを償わねばならぬ箇所である。ロレンスは言葉を重ね、イメージを連ね、執拗に優しく、一点の疑念も生まぬよう、コンスタンスの存在と読者の感性の内奥に分け入って、その精髄のところで止めを刺そうとする。
 …………
 一篇の象徴詩にも比すべき右の引用文で、コニーの陶酔は海になぞらえて示されている。暗い潮がうねり、巨大な波が海を分けて海底を露わにするときに、メラーズの男性の力がそれまで覆い隠されていた彼女の実体に触れて、彼女は文字通り「忘我」の境地に達する。未だ体験したことのないこの境地を、彼女は自己自身の誕生、一人の「女性」の誕生として感知するというのである。しかしさらに大切なことは、肉体と精神が新しい生の波に滌われてはじめて、彼女が一人の「男性」をも識別するということであって、このときに「人間」という名の肉をまとうものへの畏敬の念が生じることを作者は示唆している。つまり他の者との関係に入るために、人は新たに「男性」或いは「女性」として生まれねばならない。「肉の復活」とはすなわちこのことに他ならぬが、その再生がいかに困難であり、一人の人間の内部で「死」の実感を伴うほどの激しい衝撃と、それ故に本能的な反撥とを招くことについては、作者は殆どこの書では触れることがない。つまり『チャタレー夫人の恋人』のモチーフはそこにはない。それらは既に『恋する女』において、バーキンとアーシュラ、ジェラルドとグドルーンという二組の男女の「愛」の形態として示したことである。『チャタレー夫人の恋人』最終稿の作者は、コンスタンスの意識を麻痺させ、彼女の精神の葛藤を最初から不可能にした上で、彼女をただ「性」の潮の滌うにまかせるのである。
 …………
 人と人との繋がりの基礎に、或いは人と自然との関係の原初に、ロレンスが引用文中に窺える「畏怖」と神異の念を置いたことは明白である。言葉や観念があれ程までに嫌厭されたのは、それらが存在するものを自らの「対象」として捉え、際限なく己れに同化することによって、自他の区別を弁えぬまでに存在を毒する陥穽を本来的に有するからである。メラーズが口を閉じて一言たりとも語ろうとしない決意は、最も危いものを知る人間の平常心に他ならない。そういうメラーズの決意を了解するときに、この直後に交される会話の思いがけない展開によって、読者は『チャタレー夫人の恋人』の主題が何であるかを感得することになる。コンスタンスは、おそらくはふとした気紛れからメラーズの方言を真似る。これもまた長い引用であるが、以下十二章末尾まで引いてみる。

「旅行に出る前、一晩おれの家へ来てくれよ。来られるかね?」彼は眉を上げて彼女を眺め、膝の間に手をぶら下げた姿勢で訊ねた。
「来られるかね?」と彼女は意地悪く彼の真似をして見せた。
 彼は微笑んだ。
「よう、来られるかね?」彼はくり返した。
「よう!」と彼女は彼の方言をまねて言った。
「おい!」と彼は言った。
「おい!」と彼女が繰り返した。
「そしておれと寝るんだ」と彼が言った。「そうしなくっちゃいけない。いつ来るかね?」
「いつ行くかね?」と彼女が言った。
「いや」と彼が言った。「おまえはその言葉を使っては駄目だ。それでいつ来るのかね?」
「きっと日曜日だよ」と彼女が言った。
「きっと日曜日だね! うん!」
 彼は彼女を見て短く笑った。
「いや、おまえはおれの言葉の真似は出来ないさ」と彼は言った。
「なぜおれに真似が出来ないのかね?」と彼女が言った。
 彼は笑った。彼女が方言を真似ると、どういうわけかひどく滑稽だった。
「じゃあ、おいで。おまえはもう帰らなくちゃいけない!」と彼は言った。
「帰らなくちゃいけないかね?」と彼女は言った。
「帰らなくちゃいけねえ、だ!」と彼は訂正して言った。
「あなたはさっき『いけない』と言ったのに、なぜ私に『いけねえ』と言わせるの?」と彼女は抗議した。「あなたは卑怯よ」
「さあ帰ろう!」と彼は言って身を屈め、彼女の顔を優しく撫でた。
「おまえは名器じゃないか。世界じゅうでおまえのがいちばんいい。おまえがその気になった時は! おまえがその気になれば!」
「名器ってなあに?」と彼女は言った。
「おまえは知らないのかね? 名器さ! そこにあるそれさ。おれがおまえの中に入る時に、それからおまえがおれをお入れる時に感じるものさ、そのことなんだよ」
「そのことなんだよ」と彼女は意地悪く言った。「ものって、それは交わりのことね」
「いや、いや! 交わりっていうのはする形のことさ。動物の交わりだ。だが名器というのはずっとそれ以上のことだ。それはおまえそのもののことなんだ。おまえは動物とは全く違ったものじゃないか? 動物も交わりはするさ! 名器というのはおまえの素晴らしさのことなんだ!」
 彼女は立ち上って彼の両眼の間に接吻した。その眼は暗く、柔らかく、言い難い暖かさで、耐えられない美しさで、彼女をじっと見ていた。
「そうなの?」と彼女は言った。「あなた私を愛している?」
 彼は答えずに彼女に接吻した。「おまえは帰らなくちゃならない。手伝ってやろう」と彼は言った。
 彼の手は彼女のからだの曲線をしっかりと、欲望をともなわずに、だが優しく、親しく秘密の場所を辿りながら撫でた。
 黄昏の中を家へ走り帰る途中、世界は夢のようだった。庭園の木立は膨れ上って潮の中で錨に引き止められた船のように揺れていた。そして屋敷に向かう斜面の膨みは生きているようであった。
 一読して明らかなように、これは『チャタレー夫人の恋人』の内おそらくは唯一読者の微笑を誘う場面である。コンスタンスが戯れに方言で物言うのを聞いて猟番も微笑む。彼女はメラーズの口真似をし、メラーズは彼女に「四文字語」を用いて彼女の魅力の由来するところを語る、というのである。彼女はその「言葉」を知らないから、メラーズに教えを乞うわけであるが、二人の振舞は小児の戯れに似ており、それはそれで互いに心と躰を許した男女の閨房の睦言にも聞え、二人の性愛の歓びを逆に印象させる場面である。しかし、ラグビー邸に向かうコンスタンスにとって、「薄明」の世界が「夢」のごとくに見え、「私園の樹々は波間に停泊してうねり膨れ、邸に至る起伏のある坂は生きていた」と書かれた結びの言葉を読めば、作者の意図は既に明白であると言うべきである。すなわち二人は、他愛ない言葉をきっかけにして、人と世界の原初の関係に立ち帰っていったのである。コンスタンスの口にした素朴な方言は、あたかも人の発する最初の言語の響きを宿しもつ。言葉は未だ「存在」とその生命に触れておらず、「存在」はまた言葉と意識の作用を蒙る以前の状態にあって健やかなのである。この場面のメラーズはそれ故、「もの」に言葉を与える最初の男性である。コンスタンスはそれを嬉々として習い、己れもまた口にして名づける最初の女性である。その言葉が女性の生殖器を指す言葉であったことは、無論この小説の主題に係わることである。しかし眼目は、断るまでもなく生殖器の名称をあからさまに口にすることにはない。『チャタレー夫人の恋人』の主題は、「自然」という名の胎に孕まれたコンスタンスとメラーズという二人の人間の出生を誌すことにあるからである。二人は当然にも小児のように無心でなければならない。コンスタンスの眼前で、世界は夢幻のごとくうねり膨れ、坂でさえその固有の生命を得て生動する。すなわち『チャタレー夫人の恋人』によって、作者は一組の男女の生誕と、それによって生じた「世界」に関する一つの「神話」を残し置こうとしたのである。」
(井上義夫『ロレンス 存在の闇』)
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