忍者ブログ

Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<面光源的、あまりに面光源的な

「誰もそれを見たわけではないし、指摘もないようだから、これは私の幻想なのかもしれない。しかし私には見えるのだ。わが国の小説における統制的理念としての「私小説的人格」の存在が。急いで断っておくが、ここでいう「私小説」は、「自らの生活や経験をありのままに作品化した小説」でもなければ、一人称の小説の謂でもない。任意の文芸誌を開き、任意の作品を読んだときに、しばしばあなたが感じてきたような失望感や脱力感のもとになるあの気分、これを形成している文体的問題に寄与する人格を指す言葉である。
 いまはこの点について形容詞的にしか記述できないのは残念なことだ。しかし書き逃げにしないためにも、その特徴を、ごく控えめに何点か列挙しておこう。私小説的人格による文章の特徴とは、おおむね下記のごときものである。
 対象との距離感の欠如。言い換えるなら、かつて開高健が「アジア的直接性」と呼んだような対象との膚接性。このため比喩表現は隠喩というよりは換喩的なものとなる。擬音語や擬態語の多用が、こうした傾向をいっそう助長する。主語ではなく述語が、論理ではなく形容が記述の中心に置かれるために(日本語に主語がないせいかどうかは知らない)、メタとベタの論理階梯が混同されがちで、結果、文字通りの意味で、しばしば「虚構」と「現実」の区別がつかなくなる。「幻想」や「混沌」の描写が高く評価されがちな傾向が、この混同に拍車を掛ける。
 論理においては逆説だけがあって弁証法が機能せず、混乱はありえても葛藤はない。感情を記述する言葉が乏しいために、紋切り型を避けるには情緒と感覚だけを事細かに描くほかはなくなる。風景と内面の描写が混同されるため、そこには風景も内面も存在しなくなる(「風景の発見」が「内面」を生み出したせいかどうかは知らない)。視点は常に線的というよりは「面光源」的かつ連続的で、対象の輪郭のみが注目され、視点の転換や複数の視線が対象を立体化することはほとんどない。」
(斎藤環「あとがきに代えて──私小説人格からヤンキー文学へ」)
PR

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。

プロフィール

HN:
trounoir
性別:
非公開

P R