Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編
汝自己のために何の偶像をも彫むべからず
真理を実際問題の解決に役立たせようとする時、即ち帰納された真理が演繹されようとする時、「最高可能の実行的尺度を以て真理を測ってはならない」とあなたはいわれます。私はこういいたく思います。実際問題において、本当に困難なのは「最高可能の実行的尺度」を求め出すことであって、それを以て真理を測ることが悪いのではないのだと。私の考えるところに依れば、若し最高可能な実行的尺度が真に求め得られたならば、その尺度こそはその実際問題に就ては真理となるべきものであって、その外に真理はなく、その外に本当の標準価値となるべきものはないと信じます。(略)測るも測らぬもない、その実行的尺度そのものがそのまま真理であって、価値そのものです。(同上)「実行的尺度そのものがそのまま真理である」という時、「真理」が実現過程と結合していること(農場解放がその典型だが、具体的なプログラムとその実現過程で生じる曲折への予見性を伴うものであること)、むしろそうした予見性をどの程度含みうるかが「真理」の評価基準であること、を有島は正確につかんでいた。だが倉田はこの前提を拒否する。自分の真理が現実化される過程について、彼はヴィジョンをもたないし、もとうともしない。だがそれ以外に、倉田における真理=心理(内面)が無傷のまま生き延びうる方法はない。「実行的尺度」の捨象の効果は実用的な水準にはとどまらない。むしろこれを落とすことで、現実に接触しないがゆえに絶えず現実に勝利し続ける精神の「ドレイ」(竹内好)が生成することが問題なのだ。」
ただいまコメントを受けつけておりません。