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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<心理的自己 vs. 主体 5

「同じことは、真理の存在性格に関する彼の認識にも現れる。たとえば、自分は時代を超越した真理の実在を信じる、と言う倉田百三に対して有島はこう書いた。「或る重量器があって、その尺度はAからYまでの価値秤定に役立ち得たとするも、それがZの秤定にも役立つか否かは、秤量を終って、その秤定に従ってAからYまでの価値と色々に比較し、その相互の関係に何等の矛盾も見出されなかった後でなければ真に決定する訳には行きません。」(「「静思」を読んで倉田氏に」)
 ここで、「真理」を尊重しているのは有島の側であった倉田ではない。信念の強度は信念の真理性とは絶対に同じではない。有島は、倉田の思考における可謬性の不在を突いた。そう言いたければ、経験による反証可能性をもつ暫定的な命題だけを有島は真理と定義する、と言ってもいい。だが有島自身は、倉田のふり回す「真理」は武者小路の「自己」と全く同じだ、そこには「濃い血」への怯えが全くない、と主張したに違いない。ではなぜ繰り返しそうなってしまうのか。真理についてのこの種の理解は、倉田自身にいかなる利益をもたらし、何からの回避を可能にしたのか。

 真理を実際問題の解決に役立たせようとする時、即ち帰納された真理が演繹されようとする時、「最高可能の実行的尺度を以て真理を測ってはならない」とあなたはいわれます。私はこういいたく思います。実際問題において、本当に困難なのは「最高可能の実行的尺度」を求め出すことであって、それを以て真理を測ることが悪いのではないのだと。私の考えるところに依れば、若し最高可能な実行的尺度が真に求め得られたならば、その尺度こそはその実際問題に就ては真理となるべきものであって、その外に真理はなく、その外に本当の標準価値となるべきものはないと信じます。(略)測るも測らぬもない、その実行的尺度そのものがそのまま真理であって、価値そのものです。(同上)
「実行的尺度そのものがそのまま真理である」という時、「真理」が実現過程と結合していること(農場解放がその典型だが、具体的なプログラムとその実現過程で生じる曲折への予見性を伴うものであること)、むしろそうした予見性をどの程度含みうるかが「真理」の評価基準であること、を有島は正確につかんでいた。だが倉田はこの前提を拒否する。自分の真理が現実化される過程について、彼はヴィジョンをもたないし、もとうともしない。だがそれ以外に、倉田における真理=心理(内面)が無傷のまま生き延びうる方法はない。「実行的尺度」の捨象の効果は実用的な水準にはとどまらない。むしろこれを落とすことで、現実に接触しないがゆえに絶えず現実に勝利し続ける精神の「ドレイ」(竹内好)が生成することが問題なのだ。」
(鎌田哲哉「有島武郎のグリンプスC 論争の問題、自殺の問題」)
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