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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<Re: 賭博者=恋愛者の幻想2(⇔ヴァナキュラーなジェンダー=日常の現実)

「若い日の柳田〔国男〕も希求した「恋愛」なるものは、ヴァナキュラー〔vernacular 土着の、その集団特有の〕なジェンダーとしての男女ではなく、「もの」としての女、つまりイロニーとしての女に関係する。しかし、ここで柳田が「結婚後の恋愛」という言い方で、その「もの」性を恐れ、隠蔽しようとしていることは明らかである。家の分業において、男は生産を担い女は分配を担う(『木綿以前の事』)という体制下で、女の「もの」性は隠蔽されなければならないのだ。なぜか。そこには、柳田の民主主義に対する根深い不信が表現されているように思われる。そして、それは確かに民主主義なるものの根本的な難問に触れてはいる。
 …………
『人間不平等起源論』のルソーは、自由な自然人を設定しながら、私的所有の出現によって社会と不平等が生じることを論じた。また、『社会契約論』では、各人が私的に所持する財産や権利をいったん共同体に全面譲渡することで、各人の合意(人民投票)にもとづく「一般意思」=「国家」が出現すると主張した。このいったんの「譲渡」が、共同体の成員「全て」の無記名・秘密投票による「選挙」にあたる。この「譲渡」の際には、各人は個々に自然人に戻ると擬制されているわけである。これは「革命」を擬制することであり、ルソーの思想がフランス革命の参照先であったゆえんである。それは、ロールズが『正義論』で言う「無知のヴェール」にもとづく現代のリベラリズムより、はるかにラディカルな面を持っている。「無知のヴェール」をかけられた人間は、すでに啓蒙された存在であり、さすがに「革命」など考えている様子はない。自然状態から社会の形成にいたる長い歴史は、さまざまな不平等を生み出したが、いったん自然状態に戻ることを定期的な「選挙」として制度化することによって、いつでも社会を変えることができるという可能性を担保する。「革命」の制度化と言い換えてもよい。このルソー的自然人は、相互扶助的な関係さえ持たぬ「自由」を享受している。
 …………
 柳田の「自由の権」への嫌悪は、ルソー的自然人への嫌悪である。そんなものは存在しないと、柳田は思っているのだろう。確かに、そうである。しかし逆に言えば、普選と民主主義を肯定するとは、幼い柳田が見たという「酔狂人」さえも肯定することでなければならない。この男を啓蒙することなど、多分、できはしない。ましてや、真の意味での普通選挙においては──ヘーゲルなら、より「自然〔人〕」に近いと言うであろうところの──女の参政権は避けられないはずである。普選とは、「女」なるものは存在しない、と見なすことにほかならない。「全て」を自然人と擬制することが、普選の前提である。その投票行動が「酔狂」であることは、むしろ自由の証である。」
(絓秀実+木藤亮太『アナキスト民俗学』)
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