「ところで、自分は「泣かずして他の泣くを叙する」のが写生文家であると漱石は述べたが、しかし正確にいえば、写生文家は自分も泣かなければならないはずである。そうでなければ、写生文家は単なる傍観者と変わらない。『猫』や『草枕』でまずいのは、結局写生文家が泣いていないこと(「超然と」していること)にある。「維新の志士の如き」という決意はここから理解しなくてはならない。これは困難な課題である。写生文的認識とは、単に余裕をもって現実を眺めるということを意味しない。その態度を「余裕」と呼ぶのは間違いではないが、しかしそれは、ときに自らその余裕を失うことがあって初めて成立するような「余裕」なのである。柄谷はフロイトの論文「ヒューモア」を参照しつつ、写生文的態度とは「対象を突き放して見るが、どこか愛情をもってそうする」態度であり、同時にオブジェクトレヴェルとともにメタレヴェルに立つ「自己二重化」の能力だと述べている(『ヒューモアとしての唯物論』)。……
写生文的認識による創作とは、本来ならば、一方において「泣く(恋愛する)」主人公たちを設定しながら、それと同時にその恋愛を脱構築するような認識をも提示することである。どちらかが主要なレヴェルということがあってはならない。『三四郎』がその課題に答えて書かれたことはすでに述べた。しかし、ここでつぎのように問わなければならない。そのように複数のレヴェルを同時に提示する書き方、それはすでに「泣く」レヴェルを消去することではないだろうか。「泣く(恋愛する)」こととは、自分の「泣く」位相だけを特権化すること、すなわち、「泣く」ことを脱構築してしまうような認識を消し去ることによってのみ可能なことである。作者はつねに主人公に対して「余裕」をもっているとバフチンは述べたが(『作者と主人公』)、「泣く」主人公を設定するためには、そのようなエクリチュールの余裕を消し去らねばならない。そうでないと、写生文的認識が恋愛する主人公のレヴェルよりも優位に立ってしまうことになるからである。そのとき読者は作者の写生文的認識とともに歩み、主人公の恋愛を上位から見下ろしてしまう。そこには「恋愛」はない、言い換えればそれはもはや写生文的認識ではない。それゆえ、恋愛を写生文的認識によって描くという行為は、実はまさに「恋愛を写生文的に捉えること」を逃してしまう。「恋愛」とは単数のレヴェルしか認めないことだからである。逆に、「恋愛」を写生文的認識によって捉えるということは、不可避的に写生文を放棄することを意味するだろう。写生文とは複数のレヴェルの認識だからである。写生文的認識を拒むものこそが現実に存在しているとき、写生文家は自己矛盾に陥る。」
(東浩紀「写生文的認識と恋愛」)