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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<恋愛の当事者(己にブレを見る)2

「視野に入るどこかにひかりごけはあるにちがいない。それが二人とも発見できないのです」。ひかりごけは見えないがゆえに見えないのではなく、逆に見るがゆえに見えないものとしてある。「私」が見ていないものとは実は「私」が見ているものである。それは見えるものと見えないものとの見えない関係の認識を到来させる。「投げやりに眺めやった、不熱心な視線のさきで、見飽きるほど見てきた苔が、そこの一角だけ、実に美しい金緑色に光って来ました。(略)どんなに私の視力が鋭くても、また私の検査が手なれて来ても、洞内一面に、はなやかな光の花園を望み見ることなど、できはしないのです。あるわずかな一角が、ようやく光の錦の一片と化したと思うと、すぐ別の一角に、その光錦の断片をゆずり渡してしまうのですから。しかもその淋しい光が、増しもせず強まりもしない、単純な金緑の一色なのですから」。この光学は、それを小説の読解自体へ適用することを迫っている。素材や思想の「光の花園」を生で扱うことが躓きにすぎないことを示唆している。武田〔泰淳〕の悪意は、ある「光の断片」(スペクトル)を告げると同時にその発見を「別の断片」との交錯で無限に困難にさせる言葉のジグザグにあるのだ。それに気付く時、「私」の「不熱心な視線のさき」がひそかに結んだ焦点が我々の前にもようやく現れる。
 …………
 ……たとえば「私」は書く、「アイヌを研究する日本人学者諸氏は、私の会ったかぎりでは、みな人道主義的な、まじめな人たちで、滅びようとするアイヌ文化を敬愛し保存しようとする立場を守り、一般庶民にくらべ、はるかに同情も理解もある人々です。失言をした発表者に、悪意のなかったのは、言うまでもない。M氏自身も、これらの研究者たちを親友として、共に学にいそしんでいる。それをよく承知しながらも、M氏は敢て、猛り狂うほどの怒りを、全研究者を前にして、示さずにはいられなかったのでした」。
 Mの闘争は「敵」ではなくいわば「味方」(現実にはそんなものはないが)へ向かう。彼の怒りは、見えやすい相手への大げさな非難としてでなく、「はるかに同情も理解もある」ふるまいがアイヌ民族を陥らせてゆく欺瞞への微妙な異和から生じる。それをとらえたければ、Mが内属するとみなされている思考のスペクトルとM本人のそれとの「かすかな、ひかえ目な」差異を「私」自身が問うほかない。すでに述べたように、これこそが「ひかりごけ」の光学であり、Mの異和が隠微な摩擦の果てに爆発する光景が「私」の前に出現するのはその時である。」
(鎌田哲哉「知里真志保の闘争」)
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