「トラウマを持つ天才の物語(さまざまな変人としての噂話もこれに含まれる)として語られがちなAphex Twinを、あえてなぞりぬき、さらにそれを裏側から光を当て直したい。Davidの物語として。だから、大事なのはここからだ。
Aphex Twinは、Davidという男は、
不在の兄というトラウマから音楽を作ったのでは、ない。逆である。
自分自身がズレておりブレている。
その深淵を感じとる感覚が、兄の名を呼ぶである。
ここに、あらゆる表現の秘密がある。
自分が自分であると満足しそのアイデンティティーにブレのない人間に、表現は無い。
しかし、自分の手が自分の手でない手とにブレる瞬間に気づく者たちがいる。風景と見える風景がブレることに気づく者たちがいる。自分の肉体と自分自身のサイズはぴったりではない。同時に、世界と自分のサイズもぴったりではない。
いったい、このブレは何なのか?
…………
Aphex Twinは、Davidという男は、不在の兄というトラウマから音楽を作ったのでは、ない。欠如の感覚に敏感であることが、逆行的にトラウマを発見するのだ。彼が兄の名を呼んだのだ。その呼び声はエコーとなって自らの名にはねかえり、欠如の探究が始まった。そのドライヴが、そのダイナミズムが、ズレの場所において音楽を生じさせる。だからこれは、自分一人ノ音楽デハナイのである。だから、すばらしいのだ。
おおぜいが、固定された枠の中で固定した自分自身が作品をクリエイトしていると勘違いしている。しかし、それは表現ではない。自慰である。
自分が引き裂かれ、ダブることに向っていくこと、それが才能と呼ばれるものだ。僕らの隠された傷が、僕らを導くのではない。僕らがズレに気づくとき、その感覚が、傷に至らしめる。その途上で、やがて墓は探し当てられるだろう。やがて自らの姿は見出されるだろう。そしてそれは必ずしも幸福なことばかりではないだろう。」
(nos/unspiritualized「Aphex Twin、あるいはするどくひかるふたつの頂点」)