「吉本 …………
ただ、誰でも生理的年齢に対して割合に従順ですね。小林秀雄でも谷崎でもそういう気がするのです。正宗白鳥も従順でしょう。
柄谷 従順であろうとしても、逆にそうでなくなっちゃうというところが、たとえば谷崎にあるのじゃないですか。
谷崎は、生理としては老化していくけれども、それと拮抗するというよりは、それを逆用しようとしているように見えます。たとえば、小林秀雄が『瘋癲老人日記』を書くということは、とうてい信じがたいわけですよ。
吉本 批評としての『瘋癲老人日記』というのは、どういうものなんだろう。批評として『瘋癲老人日記』。
柄谷 それは『Xへの手紙』みたいなものじゃないですか。だから谷崎さんの場合だって、『瘋癲老人日記』は初期の作品とは本質的には変わっていないわけですね。そこにまた行っちゃうということは、ぼくは高校一年のときでしたけれども、とても奇異な感じがしたわけですよ。『鍵』が『中央公論』に連載されて、『細雪』でこの人は先が見えたと思っていたら、ああいうものを書きだしたので、すごくショックを受けた憶えがあります。
吉本 『細雪』などから見れば、あれはやはり年齢に抗する意味あいというのはあるでしょうね。
柄谷 とくに抵するという意志があるのではない、と思うんです。むしろ意志のある人のほうが、つまり『都市の論理』のじいさん〔羽仁五郎〕みたいになると思うんですよ。自分と自分がいつも激突するようなものは、『都市の論理』のじいさんにはないわけですね。言っていることがどんなに革命的でも、ただ一つ、そういうものだけはないわけです。インテリでない谷崎のほうに、それがある。
たとえば、ある人間が貧しい状態にいるとしますね。いつも劣勢状態にあるときは、不安定な精神状態で、自分と自分が激突しているわけですね。それが金持になって、何ということなくなってくると、そういう不安定状態は自然消滅してしまう。最初は慣れないが、じきに慣れてしまう。
ところが、わりかしそういう状態になってもなお持続しうるものというと、そういうものこそが自然過程を免れるものだ、とぼくは思うんです。批評の根拠もそこにあると思う。それは、むろん立場なんかではない。革命的ということとも違う。そうだったら、むしろたやすいことです。
年をとるということも、生理的にだけでなくて、いろんな人間の関係で年をとるわけですね。意志的には、それを拒むことができると思います。意志としてならば、自分は革命的だとか、いくらでも言えるわけですが、自分と自分が激突するということだけは、自分の意志では決められないものじゃないでしょうか。
そういうものを持続しているか否かということは、それもまた何に基づくのかということになっちゃうわけだけれども、ただぼくは、そういう文学者がいることを信ずるわけです。」
(柄谷行人×吉本隆明「批評家の生と死」)