「柄谷 さっきエネルギーという言葉で言ったのは、そういう意味なのです。
たとえば、ぼくの周囲の友人で離婚しているのを見ると、確実に明らかなことは、どっちかに女がいるか男がいるんですよ。別れるといっても、もうべつの相手がいるという、わりと安定した状態で別れていますね。そういう離婚というのは、エネルギーはいらないと思うのです。そうでなければ、結婚の日が浅くて、まだ本当に夫婦の関係に入っていないような場合ですね。これは離婚といわず、あらゆる転向の場合にも当てはまることですが、次のを用意しているということが、まるでダメなんだと思う。
そうでない人間が別れようと言うのは、相手がイヤだとか、そんな単純なことじゃないと思うのです。それにはものすごく精神的エネルギーがいる。しかし、そういうものは周囲を見るとあまりいないですね。たいてい次の女がいるわけで。
吉本 そうでなければ、それを契機につくって、振子のほうはそっちに寄せておいて、ということですね。
そうでなくて抽象的、思想的煩悶で、それがまことにリアルな場面とぶつかってという場合は少ないでしょうし、かりにそうなった場合には、いろんな制約があって、そのためにそういうことは座礁する、というふうになるのが普通なのでしょうね。だけれども、本来的にはそうありたくないですね、やはり〔市川〕団蔵のように行きたいですね。
年齢的にいきまして、多少柄谷さんと生理的年齢が違うから、違うところがあるかもしれないけれども、割合ずるくやれるところがあるのですよ。四十男のいやらしさと言うけれども、片方はそっとしておいて、片方で結構うまく若い女性とやっている、というような着想はとりやすいのですね。それは、生理的年齢に依存する要素が多いと思うのです。ぼくは、否定しますね。
だから、若い独身の女性が妻子ある男を好きになってというのが、もしあるとすれば、ぼくだったら、お前やめろやめろと言いますね。女性のほうに言うと思います。
なぜならば、ある年齢におけるそういう使い分けというのは、まったく自然に近いところでできやすい。片方にはそのままにしておいてということが、割合にできやすい。当事者どうしではいかに誠実真実に見えても、生理的にできるところがあるのです。その場合には、男のほうでみんな蹴飛ばしてということができないならば、やめたほうがいいという結論に達しますね。
オレならそうはしない、そういう発想はとらないというふうに、逆に言えばなりますね。何かそういう時には、独身の女性のほうが損をするに決まっているわけですよ。結論は、初めからわかっている。男のほうが、好きだったという意味では傷つくかもしれないが、何ということはない。そのまま過ぎていっちゃうように思うのですけれども、そういう着想はとらないですね。」
(柄谷行人×吉本隆明「批評家の生と死」)