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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<恋愛は比喩じゃねェ

水村 柄谷さんは、一九八六年の夏ごろの「探究Ⅰ」(『群像』連載中)で、レヴィナスを引用なさっていらっしゃいますね。レヴィナスが他者を「女性的なもの」と呼び、そしてその「女性的なもの」の本質を「光から身を隠す」ところに見出している部分です。ちょっと柄谷さんご自身の文章を引用します。
「レヴィナスがいう『女性的なもの』は、親からみた子供であり、奴隷からみた主人であり、教える者からみた学ぶ者であり、売る者から見た買う者であり、話す者からみた聞く者であり、要するに他者の他者性である。前者が『認識』しようとしても、後者は『光から身を隠す』」。そして、つぎに結論としてこうお書きになってます。「こうして、レヴィナスは、性的差異という比喩によって、この非対称的関係(差異)について語っている」。
 いま引用したことと関連して、ここでちょっと確認したいことがあるんです。それは、性的な差異が非対称的な関係の比喩となっている、ということの意味です。
 性的差異という言葉は、使い方のむずかしい言葉だと思うんですね。なぜなら、たんに性的差異と言ってしまうと、男からみた差異でも女からみた差異でも、どっちでもよくなってしまう。すると、他者の他者性というものが「女性的なもの」でなくても、かまわなくなってしまう。「異性的なもの」でかまわなくなってしまう。レヴィナスがたまたま男だったから「女性的なもの」だと言った、ということになるわけですね。
 そして今も、柄谷さんは「『他者』の他者性を異性的なものとみなすときに、恋愛という次元が出てくる」というふうに「異性的」という表現をお使いになるわけです。でも、私は「女性的なもの」という表現にこだわるの。なぜそうするかというと、柄谷さんの『探究』をちゃんと読み直してきて(笑)、それをもとに性差異の非対称性を考えてきたからです。
 たとえば恋愛においては、男が愛するだけではなく女も愛するでしょう。だから女だけではなく、男も他者になりうる。片方が追いかければもう片方は逃げ、片方が逃げればもう片方は追いかける。「認識」しようとするほうが女で「光から身を隠す」ほうが男だ、ということもありうるわけです。
 しかし、それにもかかわらず、「光から身を隠す」という他者の特性を「女性的なもの」と呼べるような、それ自体は男性的なものに反転しないような、非対称性な性差異がある。「異性的なもの」に還元不可能な「女性的なもの」が機能している性差異がある。だからこそ、それが柄谷さんのおっしゃっているような、さまざまな非対称的な関係の比喩となりうるのだろうと思います。
 たとえば親の立場に子供が立ち、子供の立場に親が立つことはある。でも、親の立場・子供の立場と呼ばれるものの非対称性は変わらない。これと同じことです。
 それなのに、この場合だけ「女性的なもの」が「異性的なもの」にスルッと移行してしまってもかまわないのは、柄谷さんご自身が、反転不可能な性差異そのものに関心を持っていらっしゃらないせいじゃないか、と思うんですけれど……。それは非対称の一つの比喩としてしか重要ではない。だから、恋愛そのものについては話す気はあまりしない、とおっしゃるんじゃないかと思います。
 私にとっても、恋愛をそのように比喩的に考えようとすることは可能です。でもそれは、自然にできることではない。かならずしも内省から出発した結果とは思えないのですが、やはり反転不可能な性差異そのものについて、つい考えてしまう。恋愛がその比喩である何ものかについて考えるよりも、恋愛そのものについて考えてしまう、ということです。ほかの非対称的な関係に還元できないようなところ──性差異という非対称性のスペシフィシティーに目が行ってしまうのです。」
(柄谷行人×水村美苗「恋愛の起源」)
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