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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<女子は比喩じゃねェ

岸田 その価値形態論って何ですか。
柄谷 弱ったね(笑)。価値形態論というのは、つまり貨幣の起源論なんですけどね。
 ふつう価値というものを、商品それぞれに価値があるというふうに言いますが、マルクスは、価値というのは商品Aが商品Bによって価値を表示されるという、そういう記号関係として捉えたわけですね。そういう関係の体系があるところへ、一つの中心として貨幣ができると、そこで関係が隠蔽されてしまう。それぞれの商品が、それぞれ価値を内在するように見えていくわけです。関係の体系が、貨幣という中心化によって、それぞれの商品が切り離されて、価値を内在化させるということです。
 経済学は、そういう貨幣形態を自明の前提としているけれども、マルクスは、貨幣形態は、商品と商品との記号的な関係を見失わせると言うわけです。一つの商品を見たって、物と内在的・超越的な価値しか見えない。使用価値と(交換)価値の二重性と言っても、それはすでに、できあがった貨幣形態の上で考えているのです。
 すると、価値形態として、言い換えれば記号形態として商品を見るということは、最初に言ったように、物であって物でないような場、すなわちフェティッシュとしての物を根源的に見出すということになるのです。商品は、根底においては、非常に奇怪なものなんで、それはいわば物以前の物、意味以前の意味としてあるのです。ところが貨幣という意識にとっては、それが見えなくなってしまっている。フェティシズム論を、ぼくはそのように理解しています。
 『資本論』は、いわゆる物(使用価値)やいわゆる価値から出発する経済学への「批判」なのですね。経済という現象は、実は、幻想的なものです。現実的に見えるけれども、経済的な物こそ幻想的な物だということが重要で、マルクスの「批判」は、そういう幻想の体系として経済現象を見ていくということだ、と思うんですよ。だから、経済学としての経済学というものじゃないわけですね。
 …………
岸田 精神分析でフェティシズムと言う場合は、まあ性的倒錯の一形態なわけで、だから、たとえば女の体そのものよりは、靴下とか手袋とか靴のほうに性的魅力を感じるというのがフェティシズムのわけなんですが、言ってみれば、女の体そのものに性欲を感じても、もともと女の体がフェティッシュなんですよ、人間の性欲では。すなわち、フェティッシュにしか性欲を感じてない。すべてがフェティッシュなんです。
柄谷 そうです。
岸田 だから厳密に言えば、いわば動物の場合におけるように、雌と雄とかが身体的に結合するということではないんですね、人間の性関係というのは。もう、性対象そのものがフェティッシュであって。
 だから、男の性欲を問題にすれば、いちおう正常となっているのは、女性器に対して欲望を感ずるのが正常なわけで、靴や靴下や手袋や、下着なんかに感ずるのがフェティシズムとなっているわけだけれども、しかし、それはたまたま片や女性器そのものをめざしている、片や靴下をめざしているだけであって、両方フェティッシュなんですね、本質的には。
 ぼくが「第一次思春期」ということを言い出したのは、そういうわけでね。ふつう言われている一回だけの思春期では、性倒錯の現象がどうにも説明がつかない。しかしまた、フロイトのように、人間は生まれたときから性欲があると言うだけでは、どうしてそうなのかという問題が出てくるし、それは結局、人間は生まれながらにして性倒錯者であると言うのと同じことで、これでは説明にならない。
 そこで、性欲は発現しているが、性交能力はない第一次思春期というものを考えたわけです。性欲の発現と、性交能力の成立との時期のズレに、性倒錯が起因すると言うわけです。この第一次思春期においては、性交能力はないのですから、性対象は現実的存在としての異性ではありえない。いわば幻想としての対象、フェティッシュなわけです。これが人間の性欲の本源的な形態でしてね。
 第二次思春期になると、いわゆる正常者は、あたかも現実的存在としての異性を求めているかのように見えるけれども、実はそうじゃないんですね。ただ、いまの柄谷さんの言い回しをそのまま借用させてもらえば、第二次思春期においては、性対象がフェティッシュであることが隠蔽されているんです。経済という現象は幻想的なものだといま言われましたけれど、同じように性という現象も幻想的なものです。
 だから、そこに幻想的なものを見ないいっさいの生理学、あらゆる心理学は、人間における性という現象を説明できるはずがないんです。性対象がフェティッシュであることを隠蔽してはじめて成立する、いわゆる正常な大人の性欲を、一次的な、自然な、本能的なものと見ているわけですからね。
柄谷 そうですね。だからそれは、ことさらマルクスにこだわるわけじゃないけれども、経済学的なことで言うと、たとえばわれわれが物をほしがるにしても、ほしがるからその物が価値になるんじゃない、と思うんです。実はそれが価値であるから、ほしがってるわけですね。新しい自動車がほしいといっても、自動車が必要であるとかなんとかっていうのは、後から出てくる考えだと思うんですね。
岸田 そうですね。
柄谷 物に対する欲望のすべてが、すでに価値によって媒介されてますね。料理を例にとってもいいんですけど、われわれの食欲は、料理された物に対してあるわけで、それは食欲といっても動物的本能じゃないはずですね。すなわち、これはフェティッシュですよね。
岸田 つまり、われわれは栄養物を食べるわけじゃない。栄養物を摂っているんじゃないから結局、食べ物という概念に入れなければ、人間は何も食えない。
 だから、アンデス山中の出来事のように人間を食おうなんて場合──まあ、人間の肉ってのはふつう食べ物の概念に入ってないわけですね──したがって、食べ物の概念に入れるためには、大々的な儀式を行なわなきゃいけない。そして、なんやかや理窟をつけて、食べ物の概念に入れないと食えない。腹減ったから肉を食べる、というふうには食えないわけですね。
 それは性欲の場合も同じで、異性だからといって魅力は感じない。やはりフェティッシュなんです、すべては。」
(柄谷行人×岸田秀「性と貨幣とフェティシズム」)
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