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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<父権制 vs. 自由恋愛(娼婦)

水村 先ほどの、なぜ女にとって恋愛が意味を持ちうるのかというところへ戻っていうと、やはりこの同一性と非対称性との両方に関わってくるわけです。ただ、そこへ話をもっていく前に、はじめに私が「女のほうが恋愛について考えさせられるという構造」と呼んだその構造なんですが、それをひとまずここでは父権制と考えてしまったほうが、いろいろなことが明確になるのではないかと思います。
 たとえば、「もう私は二度とあなたの顔など見たくない」という文があったとします。この際、この文の中の「私」というのは男を指しても女を指しても、文章としては成り立っている。でも実際は、この文が発語された場において、それが男によって言われたものか、女によって言われたものか、どちらか決めないことには、その意味を考えはじめることすら困難だと思うんです。
 エディプス・コンプレックスが「構造」のドラマでるように、恋愛というのも「構造」のドラマなんですね。つまり、「私」が具体的な人間関係の中のどの場所を占めているかということが、そのドラマの意味を理解するのに決定的な要因となる。そしてこの具体的な人間関係というのはこの場合、父権制と呼ばれるものだとみなしてさしつかえないと思います。
 父権制という言葉を聞いただけで、あ、フェミニストだ、と逃げ腰になる人がいますね。でも父権制というのは資本主義と同じようなもので、なによりもまず、今ここにあるものだと思う。しかも、いつもあった。私は詳しいことは知らないのですが、いちおう現在の文化人類学では、母系制社会はあっても、父権制に対して母権制と呼べるような社会は人類史上かつて一度も存在したことがない、ということになっているようですね。
 ……私も昔、……レヴィ=ストロースを読んで、絶望した。世の中には父権制しかなくって、しかもその父権制は女を交換することによって、そう定義されている社会である、ということらしい。モノとして交換されてしまうのでは、「主体性の確立」などたわごとみたいな話だ、という感じでした。
 この不公平さ──あえて非対称とは言わずに──を、レヴィ=ストロース自身どうやって説明していいか苦労しているのです。婚姻制度が、どうして男ではなく女を交換することで成り立つようになったか、を説明しようとしてね。男はもともと多くの女と関係を持ちたいから、つねに女の数が足りない気がして。それで女を交換するようになったのかもしれないとか。
 …………
 つい最近、足立真理子という農業経済をやっている女性の書いたものを読んで、たいへん面白いと思ったことがあるの。彼女のフィールドワークの対象は日本の小さな山村ですが、その山村において「ムラんひと」(村人)とみなされるのは、男だけなのだそうです。女は自分のことを「ムラんひと」だとは考えておらず、村のサブグループである「組」というものに属している、としか考えていないというのです。女の属している共同体が男のそれよりも下位のレベルにある、ということですね。これを読んで、父権社会の構造──つまりそれが、男女のレベル差の混同を禁じることによって形式化された社会だ、ということが本当に明確になりました。……
 このレベルの差こそ、女を交換するということを可能にし、また同時に、女を交換するということから可能になったものでしょう。
 …………
柄谷 フェミニストにかぎらず、結局、二元性(二項対立)にもっていくか、同一性にもっていくかというのが、思考のパターンとしてありますね。そうすると物事は簡単なんだけどね。ぼくが「非対称性」について考えているのは、そのいずれをも拒否したいからなのです。
水村 フロイトがエディプス・コンプレックスについて考えはじめたころ、もし子供が女の子だったらどうなるのかと訊かれて困った。そして、父親と母親を入れ替えて考えたらいいのではないか、と答えたそうです。
 ところが、実際に女だったらどうなるのか、とちょっとでも真剣に考えてみると、そんな単純に反転可能な構造にはなっていない。後になってから、男と女の非対称性に気がついていくわけですね。
 …………
 それで恋愛の話にもどると、女性がそこで他者として存在するようになる契機というのは、このレベルの差の混同の禁止が破られるときだ、と言えると思う。それは、柄谷さんが先ほどからおっしゃっている同一性を見出すということと、基本的には同じことだと思うんです。
 たとえば、シンデレラの物語があるでしょう。召使いの女が、女性的なものとしての他者性によって、主人である王子さまにのぞまれて、王子さまのさらに「主人」であるお姫さまになる、という。そこでは恋愛の場というのは、一人の男が弱者である女と絶対的な関係を結ぶことによって、女が「主人」になりうる唯一の場なのです。フランス語や英語の maîtress または mistress といったら、今では女の愛人という意味ですけれど、もともとは女主人という意味なわけですよね。
 でも、なぜ女にとって恋愛がクリティカルかということを考えるのに、このシンデレラ物語のようなところから始めると、うまくいかない。そこではすでに、恋愛がすんなりと交換体系の中に組み込まれてしまっているからです。なぜ女にとって恋愛かということは、この男から男へという女の交換の連鎖を、恋愛があやうくするものだから、というふうにしか考えられません。そしてそれは、まさしく柄谷さんのおっしゃる、同一性を根底した場を開くということだと思うんです。
 「弱者」とか「主人」とかいうのも、「人間」というような概念があって初めて可能になる。そのような同一性をまずどこに見出すかというと、共同体の外に行かないとだめなわけですね。「言語・数・貨幣」ではないけれど、やはり言語と貨幣を媒介として、同一性は生まれるのだと思います。レヴィ=ストロースは、女は未開社会では交換されるモノであるというところから、女は言語だというのですが……。
柄谷 レヴィ=ストロースがいう未開社会というのは、いわば閉じられた社会なんですね。で、あそこで交換というのは共同体内の交換なんです。それは、ぼくがいうような交換=コミュニケーションのレベルとは、まったくちがいますね。
水村 ええ。ただ私が言いたかったのは、女は言語と同じように機能していると言ったレヴィ=ストロースが、すぐその後で、だけど女は言語に還元することはできない、なぜならば女は自分も喋るからである、と書いているということです。あわててそうつけ加えている感じがおかしくて、妙に記憶に残っている。この、女も自分で喋るということが、柄谷さんのおっしゃるような意味での交換と関わってくるのではないか、と思うんです。
 女が喋る。交換されるべきものが、交換する側に立ってしまう。それを他者が存在する契機だとみなすことができるのじゃないか、と思うのです。だから他者というのを、共同体のルールを壊す女と考える以前に、共同体内の交換体系の中では交換されない女、そもそも婚姻制度の外部にある女、と考えたほうがいいと思うのです。しかも、婚姻制度の外側で自由に恋愛していた女などを想定せず、思いきって、娼婦を恋愛における他者の原型と考えたらいいのではないか、と思うのです。自前の娼婦というか。要するに、共同体のレベルで本来交換されるべきものが、逆に交換する側に立ってしまうという存在です。
 それも、娼婦が売らないということ、つまり、娼婦の人間としてのまごころとか誇りとか、そういうものが恋愛を定義するようになるのは後のことであって、まずは娼婦が売るということ、娼婦が文字どおり柄谷さんのおっしゃる「売る立場」に立つということ、それが恋愛の起源ではないかと思うのです。思えば、恋愛のかけひきの言葉には、売買に関係した言葉がたくさんあります。安っぽく扱うとか、お高くとまる、手がとどかない、安売りする、手に入れるとか……。高嶺の花なんていうのも、高の花からきたのではないかと思う。
 先ほどの柄谷さんの同一性と差異性ということで考えていくと、この場合、娼婦と客というものは市場、つまり貨幣経済を通して、同一のレベルに置かれているわけです。これは、女も言語を話すということによって人間としての同一性を持つ、ということと同じなのではないかと思うのですが。なにしろ娼婦と客が、貨幣経済を通じて同一のレベルに置かれることによって、はじめて性差異というものが価値を持ち、「女性的なもの」としての他者が存在するようになる。
 娼婦が「売る立場」にあるわけですが、商談が成立するには、客も「売り-買い」の場、すなわち、まさに他者が成立する場に立ち合わなくてはならないからです。「売り-買い」の場というのは、「買う立場」にある人間の持っている貨幣の価値を、あやうくする場でもあるのですから。いったいこの女にいくら金を積めばいいのだろう、というところから逆に、「金で買えない愛情」をやりとりするものとしての恋愛が規定されてきたような気がします。
柄谷 ぼくも、基本的にはそう考えています。たとえば江戸の文学では、遊里が中心なんですが、ふつうそれは歪んだ倒錯的な形態だと考えられているわけです。しかし、かりにそうだとしても、それなら恋愛そのものがそのようなものだと思うんですよ。健全な恋愛なんてありえない。遊里は、共同体と共同体の〈間〉あるいは交換の場所においてあるわけですね。ここではじめて、人間は相互に〈他者〉として出会う。共同体の内部では、けっして恋愛は生じない。それは、結婚にいたるための手続きでしかない。それは、共同体の内部から「宗教」が生じない、ということと同じだと思う。
 ふつう文化科学は、共同体、つまり単一の自己調整的な均衡体系から出発するわけです。だから、そこでは、レヴィ=ストロースのいうような数学的構造を見出すことができる。
 しかし、共同体にはいつも他の共同体があり、その間の交易がある。これは旧石器時代からそうなので、石器そのものが交易されていたと思う。原始社会は「未開社会」とはちがうわけです。未開社会は、それぞれの発展段階で、交通から絶たれるか、あるいはそれを自ら絶つことによって形成されたものですから。レヴィ=ストロースも、そのことは言っている。共同体は、そのような〈間〉あるいは外部性を消すことによって、あるいはそれをたんに内部からの自己疎外として見ることによって、存続する。しかし、〈間〉そのものは、いつもあったし、あり続けたわけです。
 宗教(世界宗教)は、この〈間〉を回復するものだと思います。フロイトがいう「抑圧されたものの回帰」ですね。だから宗教は、他者を回復する。その他者は、無気味なものでも親密なものでもない。いわば「契約」せざるをえないような他者です。
 恋愛もまた、一つの「契約」であって、つまり、他者の自由なしにはありえないわけです。それが売春だったとしても、少なくとも売春は契約関係ですね。それがなければ、恋愛はありえないと思う。
 日本の明治時代でも、西洋的なタイプの恋愛は、プロテスタントの教会の周辺に発生しています。それは、キリスト教的な観念のためというよりも、実際に当時、男女が対等に出会える唯一の場所だったからですね。そのためには、教会という、倒錯的な世界が不可欠であった。それは遊里という倒錯的な世界が、江戸時代の恋愛に不可欠であったというのと、本質的には変わらない。」
(柄谷行人×水村美苗「恋愛の起源」)
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