「水村 もう誰も、恋愛に神秘的なものは見出さない。
柄谷 恋愛はたしかに神秘主義的な思想と結びついているし、逆に神秘主義は、しばしば恋愛的なレトリックで語られる。だけど、ぼくは、恋愛の神秘というのは、恋愛自体が神秘なんじゃなくて、ある特定の人間を愛しているということが神秘なんだと思う。
水村 そうですね。さっきのシンデレラの話でも、ガラスの靴というのがその象徴になっている。もちろん、小さい足に対するフェティッシュのような問題もからんでいますが、基本的には、あのガラスの靴は唯一性の象徴ですね。この人でなくてはいけない、絶対に他の人ではいけない、という唯一性の象徴なのね。
柄谷 ぼくは神秘主義的体験のようなものはきらいなんですが、ウィトゲンシュタインが「世界の中に神秘はない、世界があることが神秘なんだ」と書いていることはよくわかるんです。一般者との合一とか、空への到達なんてことよりも、一対一の他者との関係のほうが「神秘的」な気がする。
たとえば、ユダヤ教で、エホバがユダヤ人を選び、契約しますね。ユダヤ人はそれで「選民」となるわけです。しかし、それは自民族中心主義とは正反対のものですね。どの民族も、共同体も、それぞれ選民なんですし、そういう神話を持っている。そういう神話あるいは宗教は、ナルシシズムです。しかし、ユダヤ教の「選民」は、実はその逆です。共同体のナルシシズムを徹底的に否定させられるわけですから。偶像崇拝の禁止とは、そういうものだと思う。ユダヤ教において、神秘的なのは、この特定の契約なんですね。それ以外の「神秘主義」は、すべて否定される。
ですから、恋愛に関しても同じことで、なぜ特定な一人なのかということが、神秘的なんですね。ナルシシズムというのは、不特定な他者、あるいは一般者に向けられている。
水村 そしてそれは、たんに人が歩いているところを見てもわかる(笑)。ナルシスティックな人間は、不特定な他者に媚びながら歩いているので、そのフシギなフンイキですぐわかります。
柄谷 そういうナルシシスティックな不特定性とは違っていて、恋愛というのは絶対に特定するわけです。で、そのときに、なぜこの人でなければならないのか、ということがすごく神秘的なわけね。
スタンダールの『恋愛論』の中にクリスタリザシオン(結晶化)のことが出てくるでしょう。それは、一般的なもののあらわれということでしょう。でも、それはどうもそうではないんじゃないか、という気がする。それだと、その相手というのは一般的なものの記号にすぎない。レヴィナスの言葉でいえば「顔」ではない、ということです。
水村 それは、スタンダールが科学的であろうとして、あんな言葉を使うからでしょうね。彼の小説においては、ちゃんと「顔」があります。偶然だけど、『パルムの僧院』の中の女主人公のクレリアは、顔を隠す人なんです。不倫の恋の相手であるファブリスに絶対に顔を見せない、という誓いを立てて、まさに「光から身を隠す」。ド・マンは『時間の修辞学』の中で、これをイロニーのフィギュアとしてとらえています。同一性へ回収することが不可能だ、ということのフィギュアとしてね。『恋愛論』でも、クリスタリザシオンというのは、結果的に見ればつけ足しのようなものになっていて、実際あの本は、極端に短い恋愛小説を、いくつも集めたもののようになってしまっているところがあるでしょう。
恋愛の個別性というものは、小説的に固有な時間の流れの中でしか現れない。だから小説というものにおいて、はじめてレヴィナスのいう「顔」が現れるというより、レヴィナスのいう「顔」をそこにあらしめるために、小説がある。そんなふうに言えるのかもしれません。」
(柄谷行人×水村美苗「恋愛の起源」)