「柄谷 ここで、なぜ剰余価値が重要かについて、言っておきましょう。
言語学者も経済学者も、交換=コミュニケーションから始めるとき、根本的に間違っていると思うのは、つねに「等価交換」を理想型として想定してしまうことです。共同主観的な規範=コードというのも、そうです。しかし、それこそ貨幣の形而上学だと言わねばならない。そのような共同的な規範性においてこそ、剰余価値が存在するのですから。
たとえばコミュニケーションにおいて、剰余価値とは何かと言えば、私が他人とある話をする場合、いつでも何か言い足りていないとか、言えなかったとかいう剰余がある。むろん相手のほうにもあるでしょう。その場合、一方は何かを抑圧させられるのです。その剰余は、在るということができないけれど、在るわけです。もちろん、言い足りなかったということは、つねに後から遅れてくる。この「遅れ」は、マルクスが言っているように、剰余価値の根拠です。
しかし、なぜそうなのか。なぜ遅れるのか。言語について考えるとき、ぼくはまずここから考えるので、言語学者の関心とは異なるのです。初期マルクスであろうとなかろうと、ぼくは、言語それ自体を「遅れ」から見るような視点がマルクスにあったことを、重視するわけです。」
(柄谷行人×廣松渉「〈共同主観性〉と〈価値形態論〉の論理」)