「廣松 すると柄谷さんは、抑圧ということと意志というものを、存在論的にもっとも根源的なものとして考えていらっしゃるわけですね。
柄谷 そういうタームでは考えていませんが、ただ、人間が人間として存在したときに、その根源は蔽い隠されたのではないかと思います。
たとえば『経哲草稿』のなかで、マルクスは「受苦的 leidend」ということを言っていますね。人間は受苦的であるが故に、ライデンシャフトリッヒフトリッヒ[leidenshaftlich 情熱的]であると。受苦性とは何かと言えば、それは欠如である。そこまではフォイエルバッハと同じですが、その欠如ということについて、マルクスはすごく具体的に考えようとしているのですね。
人間の身体的組織ということを、『ドイツ・イデオロギー』のなかで言っています。人間と自然との関係と言っても、人間の身体的組織の性質が強いる自然との関係ということですね。この場合、「関係」そのものが人間に固有のものだ、とマルクスは考えていると思います。人間が身体組織において、ある過剰または欠如を持っているということについて、フロイト、ニーチェ、マルクスは共通していますが、その具体的内容について、マルクスはあまり言っておりません。
田中吉六〔マルクス主義哲学者〕が言っているような、人間には毛がないとか、そういうことでしたら、これは「裸のサル」(モリス)と言うほうがもっとハッキリしています。つまり、人間の欠如あるいは過剰は、もっと総体的なもので、むしろそこから意味や原語が出てくる、と考えたほうがよい。この点では、人間の脳の中枢神経系が持つ過剰性を、サイバネティックスの観点から考えられると思う。
フロイトも、人間は本能を持たない、衝動しか持たない、ということから出発しています。フロイトは、人間は本能を持たないが故に衝動を持つと考えているわけですが、衝動の領域、つまりエスの領域は、もはや象形文字的なものです。デリダの言うように、それを原エクリチュールと言ってよい。フロイトのように生物学的に考えていくと、人間は動物に対して、ある遅れをとっている、遅延化された存在である、ということになるだろうと思うんです。デリダの場合は、内側からそれに接近しようとしているけれど。
ニーチェの場合も、『哲学者の本』の中で、生物学的に人間の身体的な無力性から幻想・メタファー・言語を考えようとしています。言うならば、彼らは、意味の発生、言語の発生そのものを、そういった身体的な組織から説明しようとしているわけです。それは、現象学的に考えていったら出てこない考え方だと思うんですよ。彼らは、言語や意味の問題を考えていったときに、さらに根底的に過剰性というか受苦性というか、そういうものを見ていたような気がするんです。
遅延化=差異化として人間の存在を見ていく視点が、そこにあるのではないか。その場合には、主体とか主観、あるいは時間や空間も、派生的なものとして見ることができます。」
(柄谷行人×廣松渉「〈共同主観性〉と〈価値形態論〉の論理」)