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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<借景小説批判序説──年単位の意志

柄谷 たとえば西洋でもどこでも、小説というのはふつう長篇でしょう。短篇を集めた文芸雑誌が出ていることもないし、それを毎月時評で評価するとか、そんなこともないと思います。ぼく自身が文芸時評というものをやっていたときに、絶えずこういう奇妙な作業は世界にないであろうと思っていたんです。
 長篇を書くときに、日本では雑誌に連載をするという形が多いけれども、本来は書下ろしだと思うのです。その場合、書くまでの時間は相当かかるわけですね。昔、阿部昭がぼくに、「君は何と思っているか知らないけれども、おれは一晩で書けるものしか書かないよ」と言っていたことがあります。これは体力、知力、精神力が昂揚した時というのは、ほぼ一晩しか続かないということですね。しかし、そのような昂揚があろうがなかろうが、とにかく一年か二年、それを持続するということになりますと、根本的に、身体的にまで変わってくるのではなかろうかと思うんです。したがって、世界を問い直すということが、たんに作品だけの問題ではなくて、その人の書く姿勢から、その人の時間から、すべてにおいて変わってくるのではないか。
 そういう意味で言うと、日本の作家は、そのような時間を現実に持ちにくい環境にいると思うんです。毎月の評価が出てくるようなもののほうが、存在している感じがするとかそういうことがあって、なかなかこれに対して抵抗をするというか、ある自分だけの時間を一年、二年も持ちうるということができない。できたとすれば、これは日本では異例のことになってしまうんですね。
 そういう異例なことを何が可能にするのか。ある意味では、戦後文学の人はそういう時間を持っているし、埴谷さんみたいな人は、四十年たっても同じ文体で書いています。それから大西巨人のような人のことを考えてもいい。このことは、おそらくマルクス主義が根底にあると思うのです。日本では、ほかのいかなる宗教もイデオロギーも、そういうものを与えなかったと思うんです。しかし、逆にいうと、マルクス主義がそのような役割を持ちえたのは、たぶんマルクス主義に含まれているところの、いわばユダヤ教的なものだろうと思います。
 今、人間は世界像の中に生まれてくると言われた、あるいはそれを共同主観性と言われたけれども、それはいいかえると共同体に在るということですね。『旧約聖書』を読むと、エホバは、人間が契約を破るとすごく怒るんです。この契約は、共同体の神々を捨て、エホバのみを畏れるということです。したがって神は、人びとが共同体の宗教に入ると怒って滅ぼしてしまう。たとえば農耕神の金の子牛を造るとか。しかも、そういうことは共同体の在り方から言えば普通のことなんですね。だから、ユダヤ人は絶えず裏切るわけです。エホバが言うのは、お前たちは共同体を出ろ、そうでないかぎりお前たちを処罰する、ということです。神はいわば「他者」として現れています。他者でなければ、契約ということもありえないわけですね。共同体の神々は、他者ではなく、先に言われたような「自己意識」と同じものです。
 そうしますと、同じように共同体の中に生まれてきても、そのことをどこかで根本的に拒否するような神なり他者なりが、自分からではなくて向こう側から強いるという形であった場合、そこのところが違ってくるだろう。共同体がつくり出す世界像とは違う世界像を不可避的に強いられる、あるいは問い直させるような何かがある、と思うのです。
 すると、さっきマルクス主義と言ったけれども、ぼくは、世界を超越するようなマルクス主義的な世界像のことを言っているわけではありません。それは否定すべきものです。しかし、マルクス主義の中に痕跡として残っている他者性が、この国の共同体でちんまりまとまろうとすることに対し、根本的に疑う視点をもたらしたことだけは疑いがない。それが「戦後文学」派の中に生きつづけていると思います。そして、これはぼくにとっては、文壇的党派性とは無関係の話です。
 たとえば、志賀直哉は一生かけて一つ長篇小説を書いたわけですね。これが長篇になっているかどうか疑わしいんだけれども。大半の日本の作家が世界を構成しなくてすむ理由は、ぼくは日本の庭園の作り方になぞらえられると思うのです。それは借景というものです。景色を一部つくるけれども、向こう側は現実の風景に任せてある。私小説の問題というのは、私がどうのこうのということではなくて、自分が切り取る世界の向こう側の世界を借景として前提しているということにある、と思うのです。それは長さに関係がない。
 ぼくが言う意味での長篇においては、背後の風景まで作らないとできない。そうなると、背後の風景を借りてなされているような世界の問い方ではなくて、全面的な問い方をせざるをえないであろう。それに対しては、日本の作家は、緊張が持続しないんですね。大概やめちゃうんです。かりにそうしたとしても、日本の批評家の評判が悪いんですね。不自然であるとか、概念的であるとか。事実そういう場合も多いのですが、これは批評家もまた共同体の中でしか考えていない、ということだと思います。」
(柄谷行人×竹田青嗣「文学と構成力」)
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