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Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<借景小説批判序説──他者という無限

柄谷 いま言われた、吉本さんと埴谷さんの件で論じられているということで言うと、ぼくはどっちも興味を持てないですね。つまり、そういう議論は、いわば「団塊の世代」がつくっている共同的な幻想としての現実ではないかと思う。一度、そういう言語圏から出て考えてみたらどうかと思う。
 たとえば、ドストエフスキーのことで今、二掛ける二は四という実証主義云々と言われたけれども、たとえば十九世紀末からの数学基礎論は、そういう算術をべつに自明だとは考えていないのです。しかも、ドストエフスキーは、それと無縁ではなかったのですね。ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』の中で非ユークリッド幾何のことを言っていまして、無限遠点で平行線が交わる、そういう世界があるんだということを書いているんですね。自分と「他者」がもし平行線だとすると、どこかでそれらの交わる交点があるんだ、ということです。イワン・カラマーゾフは、この交わりを時間的な未来に置く考え方を否定する、と言うのです。
 たとえば埴谷さんは、その交わる点を未来社会というか、無階級社会に置いておられるけれども、ドストエフスキーは、そうではなくて、その交わる点はイエスだと言っているんです。ドストエフスキーの小説は、いわば無限遠点をヴィジブルな他者に見出すことによって、ちがった公理系を持った小説となっているのです。つまり、十九世紀的なリアリズムの持つような公理系ではない公理系を選んでいる。それは、いってみれば非ユークリッドの公理系で書かれているのです。しかし、そのドストエフスキーは、これこそリアリズムだと言っている。たとえば、非ユークリッド幾何で考えられた相対性理論がフィクションだとは、誰も言わないでしょう。埴谷さんよりも、ドストエフスキーのほうが、現代数学を理解していると思う。
 ドストエフスキーはとても敏感に察知していたけれども、一般的に言って、十九世紀末から二〇世紀にかけて起こってきた問題は、結局、形式主義あるいは形式化という言葉でいえると思うんです。それを埴谷さんの議論も、吉本さんの議論も、まるで通過していないと思う。だから、この形式化の問題を、消費社会とか近年の時代状況で説明したりしてしまう。そのことによって、古い思考のタイプが生き延びる。しかし、本当は、そんな問題じゃないんだということを、作家のほうが気づいているはずです。
 最初に、最近の若い人のと言われたけれども、たとえば村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読みますと、現実というのは無数にある可能性の一つにすぎないという言い方をしていまして、また、世界の終りは自分が選んだ公理系の世界のことであって、そこに自分は残るとか、そういう言い方で終っています。
 客観的な世界と言われているものは一つの公理系にすぎない、であればまったく別の公理系で別の世界を作れるんだというのは、ほぼ一九二〇年代から三〇年代にヨーロッパの小説が共有した問題で、ジョイスにしても、プルーストやフォークナーにしてもそうだったと思う。最近、ヘンリー・ミラーの『北回帰線』を読みかえしたんです。彼もやっぱりそういうことをやっていますね。ぼくは昔、修士論文でヘンリー・ミラーを書こうと思ったことがあったのですが、今度はじめて気づいたのです。ヘンリー・ミラーは、自分は世界を、今までの本が書かなかったことを全部記録するんだというわけです。
 これは、メルヴィルもそうなんだけれども、アメリカの作家はむしろ構成というものを持てない連中だと思うんです。伝統的に与えられた意味での構成を持っていないと思うのです。アメリカという社会がそうだから。しかし、それでもヘンリー・ミラーの『北回帰線』が面白いなと思うのは、彼は『旧約聖書』と競争しているんですね。フランス語でいえばエクリチュールということだけど、大文字でエクリチュールというと聖書ですから、つまり、書くというとはエクリチュールだということがありまして、まったくでたらめに書いているように見えるし、構成も何もなく、終りもないような書き方をしているけれども、彼は『旧約聖書』に対抗して世界を作りあげる。そういうのはジョイスにもあったし、みんなあったと思うんです。
 最近の日本の小説家でそういうことを自覚しているのは、大江健三郎なんかそうだと思う。あの人も自分の任意の公理系で世界を構成しようとしていると思うんです。それが現実に対応しているか、そんなことは関係ないことで、現実のほうは別の公理系にすぎないのだ、というのがはっきり出ているのではないか。
 問題は、そこまではっきりさせるのには、世界からまず意味を抜かなくちゃいけないですから、あるところまで放っておきましょうとか、政治的なことは自分はわからぬから置いておきますとか、歴史的なことは知らないから置いておきますとか、そんなことでは形式化できないわけです。だから、借景では形式化はできないわけです。そういう意味で、世界全部を考えるという姿勢が不可欠になるんじゃないかと思うんです。」
(柄谷行人×竹田青嗣「文学と構成力」)
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