忍者ブログ

Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編

   汝自己のために何の偶像をも彫むべからず

( ゚Д゚)<小説家の根本

柄谷 要するに感性のレベルで言葉を見ていく必要がある、ということですね。たとえば日本の風景を外国人が見るのと、われわれが見るのとは違うんだから、そういう意味では、感性のレベルで言語は働いている。
中村 ある思想があってそれが表現されるという、思想と表現の二元論ではまったく不十分なことは、少しものを考えている人はわかっていると思う。だけれど、それでは表現それ自身がどれだけロゴス性を持っているかということは、あまり気づかれてないわけね。
 たとえば小説を読んでいくと、風景描写が出てくることがあるわけだが、永い間、風景描写が嫌いだった。ひとつには、風景描写というのは、ウソっぱちじみたものが多いからでもあったんだが、実は、文章で風景を描写するというのは、言葉によって取りこんでなければウソなんですね。つまり、言葉によって内面化されてなければウソなんだな。
柄谷 その点ですけど、ぼくが私小説について考えているのは、ふつうは私小説作家っていうのは、ありのままに書くとかいうようなことを言われてますし、当人たちもそう思っているかもしれない。それはプロレタリア文学とかなんとか、そういうのと同じで、理論としてはそうかもしれない。でも実践的には、そんなことと違うことをやってたと思う。
 結局、風景というのは写すものじゃない、究極的にはそれは言葉なのだ、と思ってたと思うんですね。だから彼らには、ある種の修行みたいなものが不可欠だったわけで、ある風景を描いても、こんなものはダメだというふうにわかる人から言われれば、もう文句なしだったわけですね。眼が鍛えられていくわけですよ。
 これは、外山滋比古〔英文学者〕がむかし書いてるんですが、日本の絵はモノクロームだ、まあ墨絵みたいなものだ。それじゃ、日本人のイメージはカラフルじゃないのかと言うとそうじゃなくて、墨絵というのは非常に抽象的なところまできている。日本人の色彩感覚が白と黒になるというのは、実際は非常に抽象化されてきてるんだ、というふうに彼は言ってるわけですよ。
 そうすると、風景を見て白黒に描くということは、ふつう未開人じゃできないわけで、それはそのように見えるんじゃなくて、見えるまでの修業みたいな、それだけの訓練のようなものが文化的にずっとあったわけで、それがないとダメだと思うんですよ。
 ぼくは骨董を見ても、わからない。修業がないからね。これはいいと言われて、そうかそうかと思いながら、自然に形成されていく眼が大切なんで、そこにたんなる視覚──そんなものは実験室にしかないけれども──ではなく、何か抽象性があると思います。
 たとえば、山下清とピカソを小林秀雄が比較してますね。山下清には何か抜けている。おそらくそれは知性だろう。だけど山下清が精薄だから知性が抜けてるんじゃない。あるいは、誰か知性のあるやつが絵を描けばいいのかというと、そうじゃない。なにか視覚として表れた、視覚としての言葉、そこが抜けてるんだろうと思うんです。
 やっぱり絵画というのは言葉だ、と思うんですよ。色や形ではあるんだけれども、そこまで言葉を考えていったら、おそらく絵にあるのは実は言葉なんだ。言葉だから、これはいい絵だ悪い絵だとかってことがわかる。その言葉の修業をやらないかぎりは、その絵が訴えてくるものはどうも理解できない。
 それは、絵画の歴史が証明してるように、むしろ絵そのものが教えるんで、初めて見たらわからないですよ。何度も見て、見てるうちにその言語を習得していく。そうすると、その絵画のよさということがわかってくる。そういうものがあるんです。
 ぼくは、その根本が言語だと思う。おそらく視覚ではない、と思うんです。だから、感性というところに言語をもってこないとダメなんで、ぼくは中村さんの本が、そうしてると思いました。だけど一般的に、感性と言うときには、なんか野蛮になることなんですね。
中村 そうなんだ。さっきマルクスの話も出たけれども、マルクスは、人間の感性がけっして素朴なものではなく、永い間の文明の歴史の蓄積であることを見抜いていますね。そういう捉え方をしなければ、たんなる野蛮主義になる。ところが、一般にはほんとにおかしなふうに理解、いや誤解されているわけですよ。
 それから、私小説作家のほうが風景をよく見ているのではないか、ということなんだが、こういうことはないだろうか。一般にも、人が意識をことさらに集中しないときのほうが、その人の力が出ることがあるわけだが、風景描写のときにもそういうところがある。あるいは、いわゆる「意識的に描く」というのが中途半端なのかもしれない。いっそのこと、もっと徹底的に意識してしまえば、かえって対象と触れあえるんだな。
柄谷 まあ、一種のファッションになってるわけですね。見てないと思いますね。
 志賀直哉なんかが、見たって言うとき、ほんとに見たんだと、見てぎりぎりのことを書いてるんだって言うけれど、まったくそのとおり書いてるんだろうと思いますね。したがって、ある視覚の強烈さみたいなところに、一種の知性を見ないとダメなんだと思う。
 志賀直哉が直接述べているような思想とか、そういう知性を見ていくと、これは白痴に近いからね(笑)。だから志賀は反知性的で原始的だったとか、バカだったとか、そういうことになるけども、そういうところに出てくる知性じゃなくて、中村さんの言葉で言えば、感性として出てきている知性みたいなもの、そちらを見ないと、志賀直哉が影響を与えた理由はわかりませんね。
中村 そうね。あなたも「志賀直哉論」(『意味という病』所収)のなかで、志賀直哉の「好き嫌い」の感覚のことを扱っていたけれども、面白い問題だな。
 志賀直哉は小説のなかで、すぐ、気に入らないとか、好きだとか書く。彼はものを見る場合に、全身で見ているところがあるな。それが、ああいう言葉になって出てきているのであって、けっして眼に映った風景を外側には見ていないでしょう。
柄谷 そうです。外側に見ている文章というのは、それは読めないですね。やっぱり内側から出てきている風景というのは、強烈にこちらは感じますね。ぼくは小説の批評をやってますが、実際に自分が扱う作家という言うと、世の中の見方で言えば、ちょっと頭の悪い人って感じの人ですね(笑)。
 まあ、どういうのかな、頭のいい人のものっていうのは、まったく魅力を持たない。さっきの考える自由ってことで言うと、こちらは考える自由を持てないわけです。
 たとえば左翼の作家ってのは、たいがい持てないんですよ。彼らが考えていることはわかった、ああそうですかと、それで終わりでね。左翼でも、中野重治のようなものには、なにか魅力がある。こちらに考える自由を与えてくれる。だけど、そうじゃないと、ああそうですか、で終わりでね。
中村 中野さんは作家として、けっしていわゆる頭がいいほうじゃないでしょう。
柄谷 ないです。まあ、いわば頭の悪い人なんですよ。だけど、頭が悪いっていうのは、ぼくはいいことだと思う。頭がいいと思ってるわけ、ほんとは。
 …………
中村 頭がいいということが、いかにも絢爛として見えるのは、実はいまだ生半可なので、ほんとに頭がよければ、そんなことにはならないでしょう。とくに小説家の場合には、そういうことがとてもハッキリ表れる。
柄谷 もうハッキリわかりますから。ぼくなんか、あれはダメ、これはダメってなことを露骨に言うから、いろいろうるさく返ってくるけども、自分で好きな人って言えば、小島信夫なんかそうですがね。ちょっと一見頭がいいとは言えない。だけど彼の言ってることは、非常にすぐれて頭がいい。
中村 一面的にものを見ないんだな。絶えず自分のなかのアンビギュイティ(両義性)で見ているでしょう。だから彼のものを掴まえる確かさは、二本の指じゃなくて、8本の指でタコが掴まえるみたいな感じだ。
柄谷 それは武田泰淳なんかもそう思うんですけど、結局ああいう人が、ほんとは頭がいいんだと思うんです。彼の文章はまさに感性なんで、感性が考えてるわけね。そういう文章を書いてますよ。それがない文学というのは、ちょっとイヤですね。
中村 現実というのは一対一の対応で捉えたら、まるで一面的な捕捉しかできない。だから現実の多面性、両義性というものを掴まえる文体なり接近方法なりを持たないかぎりは、掴まえようがないんだな。
柄谷 ぼくはまあ、ちょっと酒が入ってきたから言いたいことを言うけど、この『現代思想』なんて雑誌、ときどき読んでね、頭悪いなと思うの、ほんとに(笑)。ともかくディアロゴス〔対話〕というものを、ほんとにやったことないんじゃないか。
 そういう人たちは、おそらく当り前の日常的な事柄に関して、正確なことを一つも言えないんじゃないかと思う。つまり人間が生きたり死んだり、くだらないことをやってる、そのことについても考えてるかどうか。おそらく、考えてないんじゃないか。考えてないってことが、文章に表れているような気がするんです。
 難しいこと言ってもいいんだけど、一見くだらないことについてのモラリスト的な考察、そういうことができない人たちじゃないか、って感じを持つわけですね。彼らは、小説で言えばインテリの小説のようなものだと思うんです。そういう人とそうでない人ってのは、一読すればわかりますね。文章自体が違ってきてます。文体があるって感じなんですけどね。」
(柄谷行人×中村雄二郎「思想と文体」)
PR

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。

プロフィール

HN:
trounoir
性別:
非公開

P R