汝自己のために何の偶像をも彫むべからず
心の内を直截に写す。それが単に智的に記述されて了えば、それは説明になるだろうが、情的の潤があり響があれば、やはり一種の描写であろう。成程目付顔色などの具体的描写をして、それで心内の波瀾や葛藤を見せることも必要だが、そればかりでは十分深い所まで這入り得ない。(中略)つまり具体的描写も必要であるが、又直截な心的描写も当然為さるべきものだ。(「文談五則」)二葉亭は明らかに「描写」を「具体的描写」だけでなく「心理」にも及ぶべきだと考えている。だが、さらに重要なのは、二葉亭にとって「心理」とは「意識以下の事情」にほかならないことだ。たとえば彼は森田草平の「煤煙事件」(漱石の弟子であった草平が日本最初期の女性運動家・平塚らいてうと起こした心中未遂事件)に触れて書く。
私はこう思う。何も写生といって、狭い範囲に自ら限って、人物をも自然の景色の一点景としてのみ見ずに、寧ろ、心の景色、即ち心理状態を写生的に描き出すのも、まだ写生文の一体として面白かろうと。(「写生文についての工夫」)
それは二人に聴いて見れば、いろいろの事を言うであろう。けれども其れを聴いたって分るものではない。否、これは本人同士にも分らないであろう。即ち、当人たちも意識していない、意識以下の種々な心理的事情が紛糾って、それに動かされているのである。 この意識以下の複雑な心理事情! それが分らない内はこの事件の真相は分らない。だから最っと材料を豊かに得て、其処を洞察し、看破して、それを明瞭にして見せたならば、成程! と初めて当人同士にも分る、と言ったような物であろうと思う。(「暗中模索の片影」)ここで言われている心理が「内面」ではないことに注意しよう。むしろそのような「内面」の吐露が隠してしまう「意識以下の種々な心理」を引き出すことを、二葉亭は心理描写と呼んでいる。それは「本人同士にも分らない」ものであり、ゆえに第三者による分析的介入が必要になる。」
ラスコオリニコフはソオニャの沈黙の力の様な愛を通説に感ずるのだが、これに答える術を知らぬ。ここで彼の孤独も亦新しい暗礁に乗り上げるのである。何故俺は一人ぼっちではないのか。何故ソオニャも母親も妹も、俺の様な愛しても仕方のない奴を愛するのか。何んという俺は不幸な男だろう。「ああ、もし俺が一人ぼっちで、誰ひとり愛してくれるものもなく、俺も決して人を愛さなかったとしたら、こんな事は一切起らなかったかも知れぬ」と彼は考える──これは深い洞察である。この時この主人公は、作者の思想の核心をチラリと見る。なぜこれが「深い洞察」であり、しかも「作者の思想の核心」だといえるのか。それは、「自分は完全に閉じた孤独にあり、それゆえに現実への転回を目指す」(自意識の球体から外部へ)という発想自体の盲点にラスコーリニコフが気付きかけているからだ。現実の主人公が、すでに犯行以前の段階で母/妹/ソーニャ/マルメラードフとの討論を欠いては自己の思考を展開できなかったこと、それは母の手紙への彼の反応を一読すれば明らかである。「絶望して自己自身であろうとする」絶望に彼が突き進んだこと自体が、「全関係が他者に依存していること」を逆説的に告げている。だが彼はいま、所与としての他者の先行性からようやく思考を始めようとする。」
(女は)只口だけは巧者である。女は只一人を相手にする芸当を心得ている。一人と一人と戦う時、勝つものは必ず女である。男は必ず負ける。具象の籠の中に飼われて、個体の栗を啄んでは嬉しげに羽搏きするものは女である。籠の中の小天地で女と鳴く音を競うものは必ず斃れる。右の文章にあるように男と女が鼻をつきあわせるせまい世界は戦いの世界である。そして「具象の籠の中」で「個体の栗を啄」むその世界は、卑近な日常生活に住む個人としての男女の葛藤を描く、「近代文学」の世界でもある。そこに住む女は、寵姫、愛妾、女王、お姫様、おいらん、女郎、芸者などではなく、結婚してようがしてまいが、藤尾のようなふつうの女なのである。