Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編
汝自己のために何の偶像をも彫むべからず
(前略)かれらは、最初、どこかに正統派のマルクス主義というようなものが存在していて、そいつが公式的なものの見方のために手も足もでない状態におちいっていると考え、せいぜい、異端者らしくふるまうことによって、正統派に活をいれてやろうとおもったのかもしれない。そこには多少の善意がみとめられないことはない。しかし、なんというつまらない善意だろう。公式的なものの見方のためにがんじがらめになっている連中こそ異端者で、そいつを解放しようとするものこそ正統派だろうじゃないか。花田がこの論理を保守派カトリックの作家・批評家であるチェスタトンの『異端者たち』(邦訳『異端者の群れ』)を援用しながら主張していることからも知られるように、花田にとっての正統派マルクス主義の「党」は、普遍的な「教会」とアナロジー可能なものとして考えられている。……党は決して硬直した教義によって凝固しているわけではなく、「対立物を対立のまま統一」しているがゆえに「正統」なのだ。それゆえ、時には誤った方針を出すこともある。しかし、それが誤っているという理由で「正統」に対立しようとする異端は、カトリックの外部にある異教・邪説がそうであるように、むしろファンタジー(あるいは、初期花田の言葉を用いれば「錯乱の論理」)に過ぎないのである。……
その時代助は三千代と差向で、より長く坐っている事の危険に、始めて気が付いた。自然の情合から流れる相互の言葉が、無意識のうちに彼等を駆って、準縄の埒を踏み超えさせるのは、今二三分の裡にあった。代助は固とよりそれより先へ進んでも、猶素知らぬ顔で引返し得る、会話の方を心得ていた。彼は西洋の小説を読むたびに、そのうちに出て来る男女の情話が、あまりに露骨で、あまりに放肆で、かつあまりに直線的に濃厚なのを平生から怪んでいた。原語で読めばとにかく、日本には訳し得ぬ趣味のものと考えていた。従って彼は自分と三千代との関係を発展させる為に、舶来の台詞を用いる意志は毫もなかった。少なくとも二人の間では、尋常の言葉で充分用が足りたのである。が、其所に、甲の位地から、知らぬ間に乙の位置に滑り込む危険が潜んでいた。(『それから』、十三)この記述は決定的に重要である。美禰子の台詞と同様、三千代の台詞も二重性に満ちている。恋愛の言説をそれとして同定する西洋の「情話」と異なって、代助と三千代のあいだの会話は「尋常の言葉」でなされる。それゆえその会話はつねに、単に事務的なものなのか恋愛の言説なのか判定できない。前節で述べたように、三四郎はこの未決定性のために恋愛を開始することができない。『それから』では事情は逆である。代助はまさにこの未決定性ゆえに、恋愛に引き込まれてしまう。イワンがいつの間にか「殺せ」と言ってしまったように、代助はいつの間にか三千代とのあいだで恋愛の言葉を交わしてしまっている。おそらく三千代にとっても事情は同じである。それゆえ、二人はまさに後から、自分たちが恋愛していたことに気づくだろう。