Lubricate us with mucus. ──2nd season 盈則必虧編
汝自己のために何の偶像をも彫むべからず
真理を実際問題の解決に役立たせようとする時、即ち帰納された真理が演繹されようとする時、「最高可能の実行的尺度を以て真理を測ってはならない」とあなたはいわれます。私はこういいたく思います。実際問題において、本当に困難なのは「最高可能の実行的尺度」を求め出すことであって、それを以て真理を測ることが悪いのではないのだと。私の考えるところに依れば、若し最高可能な実行的尺度が真に求め得られたならば、その尺度こそはその実際問題に就ては真理となるべきものであって、その外に真理はなく、その外に本当の標準価値となるべきものはないと信じます。(略)測るも測らぬもない、その実行的尺度そのものがそのまま真理であって、価値そのものです。(同上)「実行的尺度そのものがそのまま真理である」という時、「真理」が実現過程と結合していること(農場解放がその典型だが、具体的なプログラムとその実現過程で生じる曲折への予見性を伴うものであること)、むしろそうした予見性をどの程度含みうるかが「真理」の評価基準であること、を有島は正確につかんでいた。だが倉田はこの前提を拒否する。自分の真理が現実化される過程について、彼はヴィジョンをもたないし、もとうともしない。だがそれ以外に、倉田における真理=心理(内面)が無傷のまま生き延びうる方法はない。「実行的尺度」の捨象の効果は実用的な水準にはとどまらない。むしろこれを落とすことで、現実に接触しないがゆえに絶えず現実に勝利し続ける精神の「ドレイ」(竹内好)が生成することが問題なのだ。」
「旅行に出る前、一晩おれの家へ来てくれよ。来られるかね?」彼は眉を上げて彼女を眺め、膝の間に手をぶら下げた姿勢で訊ねた。一読して明らかなように、これは『チャタレー夫人の恋人』の内おそらくは唯一読者の微笑を誘う場面である。コンスタンスが戯れに方言で物言うのを聞いて猟番も微笑む。彼女はメラーズの口真似をし、メラーズは彼女に「四文字語」を用いて彼女の魅力の由来するところを語る、というのである。彼女はその「言葉」を知らないから、メラーズに教えを乞うわけであるが、二人の振舞は小児の戯れに似ており、それはそれで互いに心と躰を許した男女の閨房の睦言にも聞え、二人の性愛の歓びを逆に印象させる場面である。しかし、ラグビー邸に向かうコンスタンスにとって、「薄明」の世界が「夢」のごとくに見え、「私園の樹々は波間に停泊してうねり膨れ、邸に至る起伏のある坂は生きていた」と書かれた結びの言葉を読めば、作者の意図は既に明白であると言うべきである。すなわち二人は、他愛ない言葉をきっかけにして、人と世界の原初の関係に立ち帰っていったのである。コンスタンスの口にした素朴な方言は、あたかも人の発する最初の言語の響きを宿しもつ。言葉は未だ「存在」とその生命に触れておらず、「存在」はまた言葉と意識の作用を蒙る以前の状態にあって健やかなのである。この場面のメラーズはそれ故、「もの」に言葉を与える最初の男性である。コンスタンスはそれを嬉々として習い、己れもまた口にして名づける最初の女性である。その言葉が女性の生殖器を指す言葉であったことは、無論この小説の主題に係わることである。しかし眼目は、断るまでもなく生殖器の名称をあからさまに口にすることにはない。『チャタレー夫人の恋人』の主題は、「自然」という名の胎に孕まれたコンスタンスとメラーズという二人の人間の出生を誌すことにあるからである。二人は当然にも小児のように無心でなければならない。コンスタンスの眼前で、世界は夢幻のごとくうねり膨れ、坂でさえその固有の生命を得て生動する。すなわち『チャタレー夫人の恋人』によって、作者は一組の男女の生誕と、それによって生じた「世界」に関する一つの「神話」を残し置こうとしたのである。」
「来られるかね?」と彼女は意地悪く彼の真似をして見せた。
彼は微笑んだ。
「よう、来られるかね?」彼はくり返した。
「よう!」と彼女は彼の方言をまねて言った。
「おい!」と彼は言った。
「おい!」と彼女が繰り返した。
「そしておれと寝るんだ」と彼が言った。「そうしなくっちゃいけない。いつ来るかね?」
「いつ行くかね?」と彼女が言った。
「いや」と彼が言った。「おまえはその言葉を使っては駄目だ。それでいつ来るのかね?」
「きっと日曜日だよ」と彼女が言った。
「きっと日曜日だね! うん!」
彼は彼女を見て短く笑った。
「いや、おまえはおれの言葉の真似は出来ないさ」と彼は言った。
「なぜおれに真似が出来ないのかね?」と彼女が言った。
彼は笑った。彼女が方言を真似ると、どういうわけかひどく滑稽だった。
「じゃあ、おいで。おまえはもう帰らなくちゃいけない!」と彼は言った。
「帰らなくちゃいけないかね?」と彼女は言った。
「帰らなくちゃいけねえ、だ!」と彼は訂正して言った。
「あなたはさっき『いけない』と言ったのに、なぜ私に『いけねえ』と言わせるの?」と彼女は抗議した。「あなたは卑怯よ」
「さあ帰ろう!」と彼は言って身を屈め、彼女の顔を優しく撫でた。
「おまえは名器じゃないか。世界じゅうでおまえのがいちばんいい。おまえがその気になった時は! おまえがその気になれば!」
「名器ってなあに?」と彼女は言った。
「おまえは知らないのかね? 名器さ! そこにあるそれさ。おれがおまえの中に入る時に、それからおまえがおれをお入れる時に感じるものさ、そのことなんだよ」
「そのことなんだよ」と彼女は意地悪く言った。「ものって、それは交わりのことね」
「いや、いや! 交わりっていうのはする形のことさ。動物の交わりだ。だが名器というのはずっとそれ以上のことだ。それはおまえそのもののことなんだ。おまえは動物とは全く違ったものじゃないか? 動物も交わりはするさ! 名器というのはおまえの素晴らしさのことなんだ!」
彼女は立ち上って彼の両眼の間に接吻した。その眼は暗く、柔らかく、言い難い暖かさで、耐えられない美しさで、彼女をじっと見ていた。
「そうなの?」と彼女は言った。「あなた私を愛している?」
彼は答えずに彼女に接吻した。「おまえは帰らなくちゃならない。手伝ってやろう」と彼は言った。
彼の手は彼女のからだの曲線をしっかりと、欲望をともなわずに、だが優しく、親しく秘密の場所を辿りながら撫でた。
黄昏の中を家へ走り帰る途中、世界は夢のようだった。庭園の木立は膨れ上って潮の中で錨に引き止められた船のように揺れていた。そして屋敷に向かう斜面の膨みは生きているようであった。
アーシュラであれハーマイオニであれ、或いは他の誰であろうと、彼らがたとえこの世に存在しなくても一向に構わないと思えるときがあった。何故あれこれと思い煩うのか? 筋道の立った、充ち足りた生活を得ようとして足掻くのか? 何故悪漢小説のように、事の赴くままに流されてゆかないのか。人と人の関係について何故思い煩うのか。一種自堕落なバーキンの思いは、人間と人の世を捨てたいという既に見た作者の願望の反照であるが、幾分軽く投げやりに誌されている点が、逆に『恋する女』執筆時期の作者の本心からの隔たりを示している。引用文の直後に、「しかしバーキンは、未だ真摯な人生を求めるように運命づけられていた。呪われていた」という文章が現れるのはそのためである。つまり作者の心には、「愛」を厭い人間を厭い、虚ろな世界を漂うとする動きと、人に結ばれて定まりたいと願う欲求が二重に生じていたということである。しかし「愛」を捨てきれない心が作者にあったとはいえ、求めようとして「愛」が得られるものではないことも、この作家にとっては自明すぎるほど自明な前提であった。例えば「月明り」の章末尾のアーシュラが、「得も言われぬ親密さ」を欲し、バーキンを「完璧に、自分のものとして持ち」、「生命の水を喫するように」彼を「飲み下そう」と勇み立つ場面などは、滑稽と畏れを読者に同時に感じさせる場面である。アーシュラは、時に増長の極限にまで心を昂らせる女性であり、「愛」を求める同じ意思が「愛」を遠ざけるという肝腎の真理に目醒めることがないのであるが、そういうアーシュラの姿に接する読者は、予め彼女の心の重大な欠陥に気づかされているのである。それ故に作者に残された道は、「愛」を求める心のないところに「愛」の成立する可能性を見る、およそ不可能な道が考えられるのみであったと言うことができる。……
バーキンの顔に、それまでよりも明瞭な表情が現れた。確かにアーシュラの言葉は、おおむね正しかった。彼は自分自身が偏狭であり、一方でこの上なく宗教的であるにもかかわらず、他方で奇妙に堕落しているのが分った。しかしそういう彼女自身は少しでも優れているのだろうか。他の誰であれ、彼よりも優れているか?バーキンは自分自身を省みる同じ心をアーシュラに向けざるをえない。彼にはそして、アーシュラを愛しているがために自らの欠点よりも一層鮮明に彼女の短所が見えるのである。これは読者にも馴染み深い愛する者の相克である。「愛」の意識を抱くがために、さもなければ見えない愛する者の醜さが見える。そういう「愛」の不毛な明晰さを越えようとして、「愛か憎か、或いはその双方である不可思議にして危うい親密さ」から作者は出発するのである。作者は、一組の男女の思うところをあからさまに誌し、非のうちどころないと各々が思う「愛」が、互いの「愛」に触れて崩れるさまを描かねばならない。というのも、この二人だけによっては「愛」は生じえないことを、読者の予感としても、或いは作者自身の自覚としても、予め確かめておくことがこの章にとっては必須の要件だからである。
融合、融合、二人の人間の間のこの忌々しい融合というやつ。全ての女性が、殆どの男が言い張るこの融合とかいうやつも、怖ろしく胸くそ悪いものではないか。精神のであれ、情熱に火照る肉体の融合であれ、忌わしいものではないか。アーシュラは、バーキンの手渡した指輪を投げ捨て、「漫然とした」足どりで遠去って行く。取り残されたバーキンが彼女の後ろ姿を見ながら右のように独白するとき、作者は「意識」に濁った「愛」の不純さを吐きすてていると言ってよい。つまり「愛」を一つの理想とし、その「愛」によって他者に結ばれねばならないという貪りを唾棄している。しかし「融合」はとりもなおさず「愛」のことであるから、「融合」を「忌わしい」と言うバーキンと作者が喪ったものもやはり「愛」に他ならなかった。「アーシュラの姿は小さくなった。彼女はバーキンの視野から消えたようであった。一つの暗黒が彼の心に降りた。ただ小さな意識の斑点だけが、彼のまわりを飛び交っていた」と書かれた文章は、「愛」の成就する可能性が消失したことを自覚したバーキンの心が一つの暗黒の空ろと化して、意識だけが心の外で飛び交う虚脱状態に陥ったことを示している。アーシュラとの「愛」の期待が消え去ったとき、バーキンの生涯の理想にも死に等しいものが訪れたということであるが、人の意識が善しとしたものが滅びてはじめて、「愛」を妨げるものもまた滅びるのである。ロレンスが「愛」を喚起するためにはさしあたりこれだけの過程が必要であった。つまり作者の心から、「愛」を望む心と「愛」を厭う心の双方を浄化することが必要であった。そういう無垢の魂の、願うもののない虚の空白にこそ、「愛」の訪れについての深い信念は芽生えるからである。
バーキンの心には暗黒がかぶさっていた。妄執のように続いた怖ろしい意識の瘤はいま壊れ去り、バーキンの生は、その四肢と身体にかぶさる闇のなかに溶けた。しかしいま彼の心臓には一点の不安があった。アーシュラに戻ってきて欲しかった。軽く、規則正しく、無垢に息を吸う負目ない幼児のように、バーキンは呼吸した。アーシュラは、戻ってくる道で一体何を考えたか。彼女の心理の変化は一切語られないから、これを指して読者が、作者は肝腎の場面で問題を回避したと言うのは易しいことである。しかし顧みて、この小説の十三章でアーシュラが一人でバーキンの住居を訪れるとき、既に二人が肉体の交りを結ぶ条件は整っていたのである。にもかかわらず恋するこの二人の男女は究極的に結ばれることがなかった。その原因がどこにあるかについて、「遠出」冒頭の数頁で示唆された以上、「愛」を成立させない当のものに頼ってアーシュラの翻意を明かすことは不可能なことである。何が不可能な「愛」に再び生命を吹きこんだかは、バーキンの「意識」そのものが彼から分離した事態と、アーシュラが摘んできたエリカの花と、さらには「繊細な、敏感すぎるほどやさしい」彼女の手によって語らせる外はないのである。
アーシュラは戻ってきていた。高い生垣の下を、ゆっくりと、彼の方に向かうアーシュラが、ゆらゆらと漂ってくるのが見えた。しかしバーキンは動かず、再び見ようとはしなかった。彼はまるで安らかに睡んでいるように、完全に弛緩していた。
アーシュラは彼の前に佇み、うなだれて言った。
「あなたのために摘んできたの。何の花だと思う?」
赤紫のエリカの一房を、彼女は気づかわしげにさし出した。バーキンは、色づいたエリカの束と一本の木のような小枝、この上なく繊細な、敏感すぎるほどやさしいアーシュラの手を見た。
心の内を直截に写す。それが単に智的に記述されて了えば、それは説明になるだろうが、情的の潤があり響があれば、やはり一種の描写であろう。成程目付顔色などの具体的描写をして、それで心内の波瀾や葛藤を見せることも必要だが、そればかりでは十分深い所まで這入り得ない。(中略)つまり具体的描写も必要であるが、又直截な心的描写も当然為さるべきものだ。(「文談五則」)二葉亭は明らかに「描写」を「具体的描写」だけでなく「心理」にも及ぶべきだと考えている。だが、さらに重要なのは、二葉亭にとって「心理」とは「意識以下の事情」にほかならないことだ。たとえば彼は森田草平の「煤煙事件」(漱石の弟子であった草平が日本最初期の女性運動家・平塚らいてうと起こした心中未遂事件)に触れて書く。
私はこう思う。何も写生といって、狭い範囲に自ら限って、人物をも自然の景色の一点景としてのみ見ずに、寧ろ、心の景色、即ち心理状態を写生的に描き出すのも、まだ写生文の一体として面白かろうと。(「写生文についての工夫」)
それは二人に聴いて見れば、いろいろの事を言うであろう。けれども其れを聴いたって分るものではない。否、これは本人同士にも分らないであろう。即ち、当人たちも意識していない、意識以下の種々な心理的事情が紛糾って、それに動かされているのである。 この意識以下の複雑な心理事情! それが分らない内はこの事件の真相は分らない。だから最っと材料を豊かに得て、其処を洞察し、看破して、それを明瞭にして見せたならば、成程! と初めて当人同士にも分る、と言ったような物であろうと思う。(「暗中模索の片影」)ここで言われている心理が「内面」ではないことに注意しよう。むしろそのような「内面」の吐露が隠してしまう「意識以下の種々な心理」を引き出すことを、二葉亭は心理描写と呼んでいる。それは「本人同士にも分らない」ものであり、ゆえに第三者による分析的介入が必要になる。」
ラスコオリニコフはソオニャの沈黙の力の様な愛を通説に感ずるのだが、これに答える術を知らぬ。ここで彼の孤独も亦新しい暗礁に乗り上げるのである。何故俺は一人ぼっちではないのか。何故ソオニャも母親も妹も、俺の様な愛しても仕方のない奴を愛するのか。何んという俺は不幸な男だろう。「ああ、もし俺が一人ぼっちで、誰ひとり愛してくれるものもなく、俺も決して人を愛さなかったとしたら、こんな事は一切起らなかったかも知れぬ」と彼は考える──これは深い洞察である。この時この主人公は、作者の思想の核心をチラリと見る。なぜこれが「深い洞察」であり、しかも「作者の思想の核心」だといえるのか。それは、「自分は完全に閉じた孤独にあり、それゆえに現実への転回を目指す」(自意識の球体から外部へ)という発想自体の盲点にラスコーリニコフが気付きかけているからだ。現実の主人公が、すでに犯行以前の段階で母/妹/ソーニャ/マルメラードフとの討論を欠いては自己の思考を展開できなかったこと、それは母の手紙への彼の反応を一読すれば明らかである。「絶望して自己自身であろうとする」絶望に彼が突き進んだこと自体が、「全関係が他者に依存していること」を逆説的に告げている。だが彼はいま、所与としての他者の先行性からようやく思考を始めようとする。」